陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足
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「陰陽師」の記事における「陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足」の解説
陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成したと言われているがこれは伝説であって、中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに朝鮮半島(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。 当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。 その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。 陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、技官として方技の各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。 陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。 陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
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