阿片戦争と中国半植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「阿片戦争と中国半植民地化」の解説
清は広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行(中国語版)という清政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。しかしインド産アヘンはこの枠外であり、イギリス商人が密貿易によって中国人アヘン商人に売っていたため清国内にアヘンが大量流入していた。1823年にはアヘンがインド綿花を越えて清の輸入品の第一位となり、清は輸入超過(銀流出)を恐れるようになった。1839年に清がアヘン取り締まりを強化したことで英清関係は緊張し、小競り合いが発生するようになった。 外相パーマストン子爵は1840年6月にイギリス艦隊や陸軍兵力を広東に集結させて阿片戦争を開始し、1842年春に清政府に南京条約、五港通商章程(中国語版)、虎門寨追加条約など不平等条約を締結させた。これによりそれまでの広東貿易制度や公行制度は廃止され、清はイギリスの世界自由貿易体制の底辺に組み込まれる形となった。アヘン輸入も一層拡大され、香港がイギリス領として割譲されることになった。東アジアでの更なる覇権確立の足場の確保にヴィクトリアも喜び、叔父ベルギー王レオポルドに宛てた手紙の中で「ヴィクトリア(1840年に生まれたばかりの長女)を香港大公女(Princess of Hong Kong)に叙そうかと考えています。」と冗談交じりに書いている。 しかしイギリスの主要輸出品木綿の清への輸出量はその後もあまり増えず、マンチェスター綿産業を中心に清に更なる市場開放を迫るべしという声が強くなっていった。また中国では清政府や中国人の無法ぶりが目につくようになっていた。広東では、中国半植民地化に反発する民衆が排外暴動を起こすようになり、イギリス香港総督がこれについて抗議しても、清政府はまともに応じなかったのである。また「夷狄の首府侵入」を許すことによって権威が低下することを恐れていた清政府は、南京条約に違反して、イギリス外交官と北京政府の直接交渉を認めず、外交窓口を広東に派遣する欽差大臣に限定し続けた。 そのため1850年代から上海領事サー・ラザフォード・オールコックらを中心に清に対する再武力行使論が盛んになった。1855年に強硬派のパーマストン子爵が首相となり、クリミア戦争にけりがつくとその傾向は強まった。クリミア戦争を経て同盟関係を深めていたフランス皇帝ナポレオン3世もそれに賛同し、英仏連合軍は1856年10月から清に対してアロー戦争(第二次アヘン戦争)を開始した。追い詰められた清は北京陥落を防ぐため、1858年6月に天津条約を締結して終戦させたが、清が条約を守る姿勢を見せなかったため、英仏連合軍は再度開戦し、1860年8月にも北京を占領し、改めて清に北京条約を締結させた。これにより中国半植民地化は決定的となったが、同時に清朝そのものの弱体化も決定的となり、太平天国の乱が活発になり、イギリスが内政干渉(清朝支持)をせねばならない機会が増加した。また統治能力のない清政府に代わってイギリスが中国沿岸ほぼ全域の防衛を担当せねばならなくなり、その負担は大きかった。 アヘンを吸う中国人 イギリス植民地香港で発効されたヴィクトリア女王が描かれた96セント切手
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