阿津賀志山防塁とは? わかりやすく解説

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阿津賀志山防塁

名称: 阿津賀志山防塁
ふりがな あつかしやまぼうるい
種別 史跡
種別2:
都道府県 福島県
市区町村 伊達郡国見町
管理団体
指定年月日 1981.03.14(昭和56.03.14)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S55-05-017阿津市山防塁.txt: 本遺跡宮城県との県境接し、信達盆地北端位置する標高289メートル厚樫山南麓から、そのまま約4キロメートル南下して阿武隈川に近い地点までの水田地帯所在する。この一帯には、今日も「阿津加志山」「大木戸」「国見」のほか、「堤下」「中島」「遠矢崎」「段ノ越」「上二重堀」「下二重堀」「石田」「[[元木]もとぎ](本城・元柵)」などの地名南北連なっているが、現況東北本線国道4号線東北縦貫自動車道などに分断され、更に耕作用水路などによって地形が相当に改変されてはいるものの、その間国見町史跡阿津加志山二重空堀」(昭和45年指定)を始めとして、水田畦畔各地、あるいは畑地果樹園墓地等随所断続的に土塁状の地形高まり段差残し、特に「二重堀地区には明らかに二重の堀跡と三重土塁跡が現存していて、古くから『吾妻鏡』文治5年記載藤原泰衡構築したという「阿津賀志山」と「国見宿」との中間の「口五丈堀」であろう考えられてきた。
 昭和46年東北縦貫自動車道建設に伴う事前発掘調査福島県教育委員会によって行われその結果厚樫山の南傾斜面中腹で、二重の堀を2メートル前後掘って、その土を1メートル前後積みあげた三重土塁跡を検出し、そして西堀西壁東堀の東壁との掘り込み部の幅は15メートル測ること、さらに東土塁には自然石根固めをしていることも確認された。
 次いで昭和53年、この地区一帯における圃場整備事業計画提示されるに及び、その計画が特に南半部の地形大幅に改変してしまうため、昭和54年福島県教育委員会は緊急発掘調査実施した発掘箇所主として圃場整備実施地区であるが、9地点トレンチ調査結果は、一部一重堀の存在し検出されなかった地点もあるが、他は二重堀検出され二重堀の幅はやはり15メートルを測り、堀の深さ1.5~2.8メートルいずれも深く断面形が「V」字形いわゆる[[薬研堀]やげんぼり]であることも昭和46年発掘箇所と同様であった
 このような再度発掘調査地表観察とを総合すると、地下検出された堀・土塁地上観察される堀・土塁総て一様構造ではないにせよ、明らかに一連の防塁としての構築物であり、現在までに鎌倉時代という年代を判定する出土遺物検出されていないが、地下の堀の層位及び遺跡周辺地名・地形等から考えても、また二重堀の堀幅の15メートルが「口五丈堀」の「五丈」にほぼ一致することからも、この遺跡藤原泰衡防塁跡だとしてまず誤りがないであろう
 『吾妻鏡』文治5年条の記載は、「阿津賀志山」周辺源頼朝奥州征伐最大激戦地として詳細に伝えており、この地における泰衡の敗退奥州藤原氏の滅亡招いたとしている。もちろん、「阿津賀志山」「城壁」は「口五丈堀」だけではなく、「阿津賀志山」に「要害」を「固」めていたと思われるが、今日まだ遺構としてそれを十分確認するまでに至っていない。しかし、この防塁跡が、鎌倉幕府全国支配帰趨考え上できわめて重要な遺跡であることに鑑みとりあえ厚樫山頂上から圃場整備除外地を中心に可能な限り必要な範囲段階的に指定し、その保存活用図ろうとするものである
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