奥州藤原氏の滅亡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 奥州藤原氏の滅亡の意味・解説 

奥州藤原氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 06:52 UTC 版)

奥州合戦」の記事における「奥州藤原氏の滅亡」の解説

8月26日頼朝赦免求める泰衡の書状届いたが、頼朝はこれを無視して9月2日には岩手郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍開始する。厨河柵はかつて前九年の役源頼義安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例倣い、厨河柵での泰衡討伐望んだのである。泰衡は奥地逃亡し糠部郡から夷狄島(北海道)への渡航企てたが、3日比内郡贄柵で郎従河田次郎殺害された。4日頼朝は陣岡に布陣して北陸道軍と合流した軍勢総数は「二十八万四千騎」に達したという。泰衡の首級6日に陣岡の頼朝届けられた。頼朝河田次郎八虐の罪に値するとして斬罪処し前九年の役祖先源頼義安倍貞任の首を晒した故事倣って泰衡の首を晒した7日、泰衡の郎従である由利維平捕らえられる。その勇敢な態度から頼朝は維平と会い、「泰衡は奥州威勢振るっており、刑を加えるのは難儀思っていたが、立派な郎従がいなかったために、河田次郎一人に誅された。両国治め十七万騎率いながら、二十日程で一族滅びた。言うに足らない事だ」と告げた。維平は「故左馬頭殿(源義朝)は、海道十五箇国を治められたが、平治の乱一日支えられ零落し数万騎の主であったが、長田忠致に誅されました。今と昔で優劣があるでしょうか。泰衡は僅か両国勇士率い数十日も頼朝殿を悩ませました。不覚たやすく判断できないでしょう」と答えた頼朝答え返さず対面終えると、畠山重忠に維平を預け芳情施し命じた9日京都一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が陣岡の頼朝の下へ届いた12日頼朝は陣岡を出て厨河柵に入る。15日樋爪館放棄して北走していた樋爪俊衡太郎俊衡入道)とその弟・樋爪季衡五郎季衡、本吉季衡)が降伏のために厨河柵に来る。そこには俊衡の3人の息子(師衡(太郎太田冠者、号大国御達)、兼衡(次郎次郎二郎)兼衡、次郎二郎)義衡)、忠衡(河北冠者))、季衡の息子・経衡(新田冠者)の姿もあった。また、『吾妻鏡』や『平泉志』には景衡という人物登場し伊豆国配流になっているが、具体的な系譜関係は不明である。18日、秀衡の四男で泰衡の弟の一人(四弟)・高衡が下河辺行平通じて降伏し捕虜となった19日まで逗留して降人赦免本領安堵などの処理を行った平泉戻った頼朝奥州支配体制固めるため、22日葛西清重奥州総奉行任命し28日鎌倉向けて帰還した。 しかし鎌倉支配対す現地豪族反感根強く文治5年1189年12月に泰衡の家臣であった大河兼任主君の仇と称して挙兵し鎌倉軍を悩ませた(大河兼任の乱)。この反乱翌年3月鎮圧され、約10年にわたる争乱終息し武家政権確立向けた準備がほぼ整うことになる。また、秀衡の6人の息子かつ奥州合戦参戦した3人の秀衡の息子(国衡、泰衡、高衡)の中で唯一生き延びた高衡は、12年後建仁元年1201年)に越後国城氏一族起こした建仁の乱一味加わり鎌倉方討ち取られた。

※この「奥州藤原氏の滅亡」の解説は、「奥州合戦」の解説の一部です。
「奥州藤原氏の滅亡」を含む「奥州合戦」の記事については、「奥州合戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奥州藤原氏の滅亡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥州藤原氏の滅亡」の関連用語

奥州藤原氏の滅亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥州藤原氏の滅亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奥州合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS