奥州藤原氏の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「奥州藤原氏の興隆」の解説
金色堂の仏壇や4本の巻柱、長押にアフリカゾウの象牙や夜光貝や紫檀が使われており、当時の奥州藤原氏の隆盛ぶりと海外とのつながりが証明されている。つまりここの地方は朝廷の中央文化とは別にアジアの独自貿易ルートを持っており、独立的経済圏を形成していた。 藤原基衡は、毛越寺本尊の制作を仏師・運慶に依頼し、其の費用一体分は円金100両、鷲羽100尻、アザラシの皮六十余枚、安達絹1000き、希婦の細布2000端、糠部の駿馬50頭…等々を京へ収めたほか、中央政界の実力者藤原頼長の荘園も管理し、海外からの宝物を納めている。延暦21年(802年)、東北以北に住む蝦夷の族長アテルイを、坂上田村麻呂が征討したことは、よく知られ、蝦夷支配のための、政府出先機関、胆沢(いさわ)鎮守府が置かれ、安倍氏 (奥州)が台頭し朝廷は安倍氏からもたらされる、オットセイやアシカの毛皮は装身具に必要であり、鷲の羽根は矢羽に欠かせなかった。
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