海外とのつながり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 13:31 UTC 版)
青年時代に第二次世界大戦を経験し、ヤミ屋として生きていた時期、アメリカ兵と交わる中で「国は違っても、人類みな兄弟」という境地に達する。また、幼い頃は台湾在中だったこともあり、海外は身近な存在であった。昭和40年に菓子業界の専門誌が主催した約1ヶ月の研修旅行に参加。世界の民族食は「包む」という作業で作られている。包あん機は世界に通じる、と虎彦はこの時確信する。昭和42年には202型の開発に成功、パンを加工するシーンを8mmに撮影し渡米。アメリカ製パン技術者協会を訪ねこのフィルムを見せた。その動画に驚いた協会は製パン技術者のM.J.スワートフィガーを日本に派遣。約3ヶ月滞在させ、様々なパン製造の実験を行った。彼は包あん機を「インクラスティングマシン」と名付け、研究論文を全米技術者協会の機関紙に発表。虎彦の名は全世界で知られるようになった。
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