海外とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)
明治維新により旧規が撤廃されると、織物に使われる生糸は重要な輸出品となった。さらには織物自体も海外向けの品が珍重されるようになった。明治末期から大正期にかけて作成された織物見本帖「橋立」には、外国向けの様々な織物が含まれており、海外販売を意識した製織が行われていたことがうかがえる。 1871年(明治4年)の廃藩置県で豊岡県が誕生すると、大野右仲県権参事は丹後縮緬を県の特産品として手厚く保護した。明治新政府が国を挙げて参加した1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会では、出展品を検討するため各府県に1品の報告が求められ、そのうちの織物に関する報告を集めた「織物集説」によると、豊岡県では中郡峰山産と、宮津近傍産の縮緬について報告しており、峰山産の縮緬の質が良いとされ、博覧会にも出品されて、賞を受けている。1875年(明治8年)には米国独立百年祭万国博覧会に出品。1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会でも、峰山産の縮緬が出品された。さらに、1900年(明治33年)パリ万国博覧会では、口大野村の鵜飼源右衛門が銅賞を受賞したほか、浜見利七、小林新七、加畑万助、尾藤広吉、塩見徳三、小林忠七、尾藤直蔵、江原徳右衛門の8名が入賞して、出品した丹後ちりめんはフランスで完売した。この時、日本最初の女優とされる川上貞奴が口大野村で製織された絹のドレスを身に着けて出演し、そのドレス地は仏蘭西縮緬と称され、明治30年代に流行した。おそらくこれが、鵜飼のちりめんであろう。鵜飼のちりめんには、その後にフランスの商社から注文が入り、「仏蘭西ちりめん」と呼ばれるようになったと伝えられている。また、シカゴ万国博覧会でも、丹後ちりめんは多数の受賞者を輩出した。 明治期には技術革新もすすみ、1894年(明治27年)には丹後地方最大のちりめん工場となる西山第一工場(西山機業場)が稼働した。1900年(明治33年)にはジャカードが普及し、紋紙を使用する技術が本格的に導入された。1904年(明治37年)には、西山第二工場、第三工場が増設され、ドイツのオットー社製の発動機とスイス製の力織機が導入され、丹後地方ではじめての動力による縮緬製織がスタートした。 明治期に導入された技術年概要1887年(明治20年) 引き打ち装置(バッタン付き織機)の導入が始まる。 1893年(明治26年) 加悦の杉本治助(西山機業場創設)によって、ジャカード織機が導入され始める。 1902年(明治35年) 足ふみ織機の導入が始まる。 1904年(明治37年)または1908年(明治41年) ガス発動機での力織機の導入が始まる。
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