奥州軍の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/15 14:20 UTC 版)
8月7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。又、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)では伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。奥州軍の抵抗は激しく、戦いの声は山谷に響き渡り郷村を動かすようであったという。激戦が続く中、紀権守、芳賀次郎大夫ら七名が鳥取越(現小坂峠)から迂回して国衡軍の後陣を奇襲する。奥州軍は混乱に陥り、金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。根無藤の城郭でも両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死すると勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。
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奥州軍の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 06:52 UTC 版)
詳細は「阿津賀志山の戦い」を参照 奥州側は、泰衡の異母兄・国衡が阿津賀志山に城壁を築き、前面に二重の堀を設けて阿武隈川の水を引き入れ、二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡自身は後方の多賀城の国府にて全軍の総覧に当たった。7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。 また、石那坂の戦い(現在の福島市松川町関谷付近)では伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。ただし石那坂は地理的に阿津賀志山よりはるかに南方であることがわかっており、石那坂の戦いは阿津賀志山の戦いより以前に別の場所で起こった合戦と思われる。『吾妻鏡』はそれを同時に進行していたように描くことで劇的効果を上げており、軍記物語特有の表現技法を取り入れた例と推測されている。 10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。後陣の山に登った紀権守、芳賀次郎大夫(紀清両党)らの奇襲もあり、奥州軍は金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。根無藤の城郭では両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死して勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。頼朝は北上し船迫宿を経て12日に多賀城に到着し、常陸方面から来た東海道軍と合流した。13日、比企・宇佐見の両将に率いられた北陸道軍は田川行文・秋田致文を討ち取って出羽を制圧した。
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