水沢の南部鉄器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 18:07 UTC 版)
平安後期に、江刺郡豊田館にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して羽田に伝わったと語り継がれている。この近隣には、後背地にあたる北上山地の砂鉄、木炭および羽田の北上川旧河川跡から出る質の良い砂と粘土などの鋳型材料が容易に手に入れられることから鋳物業が栄えた。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉に移ると彼らも一緒に移った。実際、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土しており、中尊寺を始めとする寺院などの備品も鋳造していた。奥州藤原氏の滅亡以降は日用品を細々と鋳造した。 羽田に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家に養子に入った京都聖護院の長田正頼という鋳物師がその始めだったといわれている。後に千葉家は奥州総奉行葛西氏に召し抱えられる。以後、長田正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちが羽田に住み、定着していった。 江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。
※この「水沢の南部鉄器」の解説は、「南部鉄器」の解説の一部です。
「水沢の南部鉄器」を含む「南部鉄器」の記事については、「南部鉄器」の概要を参照ください。
- 水沢の南部鉄器のページへのリンク