水沢とバレエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 16:14 UTC 版)
「トウ・シューズ (漫画)」の記事における「水沢とバレエ」の解説
水沢はこの作品を連載している頃に、実際にバレエスクールに通い、バレエの発表会にも出演している。小学校2年生の時、友達のバレエの発表会を見て、バレエを習いたくて仕方が無かった事や、小さい子のクラスを見学するのが大好きで、「今度の連載はバレエ漫画にしよう」と決めていた事や、知り合いのバレエの先生から勧められた事などがきっかけだという。水沢がバレエを始めたのは、1996年の1月頃だが、その頃は水沢は「ないしょのプリンセス」を連載していた。「トウ・シューズ」の連載が始まったのは、それからほぼ一年後の1997年2月号から。その為、「トウ・シューズ」の連載を始めるまでに1年近く、水沢はバレエのレッスンを積んでいる為、それが作品にも生かされていると思われる。締め切り当日がレッスン日で、朝まで原稿を描き、10:30から1時間レッスンに行って、1時過ぎに原稿を出した事もあった。しかしストレッチのし過ぎで足を痛め、足が上がらなくなってしまい、半年ぐらい経ってようやく治ったものの、それに喜んでストレッチをしたらまた痛めてしまう。1997年11月16日に発表会があり、それに水沢も出演する。本番は4時からで、漫画家の友人たちも来てくれた。演じたのは先生が選んだ、レハール作曲の「金と銀」という曲。しかし後でその時の写真やビデオを見ると、自分だけすごくヘタだったとの事。 ちなみにこの日は、サッカーのフランスワールドカップ予選の、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」の日であり、水沢も深夜までテレビを観戦し、深夜2:30頃まで特番も見たという。その日はバレエの発表会で、朝の9時にバレエの発表会の会場に集合して準備をして、発表会に出て、夜はサッカーを見たので、一日中テンションの高い日だったと語る。コミックスの欄外にもサッカーの話が多く載っており、川口能活選手と井原正巳選手のファンだと書いてある。1998年6月14日にトゥールーズで行われたフランスワールドカップ(1998 FIFAワールドカップ)のアルゼンチン戦の観戦にも行っている。特別チャーター便でトゥールーズの空港へ行き、空港からバスで試合会場へ行き、試合後はバスで空港に戻り飛行機で日本に帰ってくる、ホテルにも泊まらず寝るのは飛行機の中だけという「0泊3日の炎の弾丸ツアー」で行ったという。会場では日本人もアルゼンチン人もフランス人も一緒になってお祭り騒ぎだったとの事。 コミックスには全5巻の全ての巻末に、「バレリーナ物語」という短い漫画が載っており、水沢のバレエのレッスンや発表会の実話が載っている。バレエを初めて2年間経った頃に、水沢は自転車に載っていて電柱にぶつかって頬の骨を骨折してしまう。そして2週間入院して手術を行い、バレエのレッスンを2ヵ月間休む事になってしまう。レッスンを休んでいる間は筋肉がゆるんでいく感じがしてすごく焦ったという。漫画の中でも、くるみがケガで練習ができない時期があるので、くるみの気持がよく分かったという。このケガの為か、「りぼん」1998年5月号では連載を休載している。2ヵ月後にレッスンに復帰した時は、予想通り体がすっかりなまっていてうまく踊れなかったが、休んでいる間にファンからたくさん励ましの手紙を貰ったことが嬉しかったという。 連載1回目に読者から貰った手紙の半分以上が、バレエを習っている人からだったという。また、「この漫画を読んでバレエを始めました」という手紙や「バレエを始めたいんだけど今からじゃ遅いかな」という手紙も来たという。また、ちょくちょくバレエの公演も見に行っており、同じ演目でもバレエ団によって衣装や背景などが変わるので奥が深いと述べている。また、バレエを習っている読者から発表会のチケットを送られる事もあったが、仕事が忙しかったり、手紙はいったん編集部でまとめられてから送られてくるので、手元に届く頃にはその発表会の日が既に過ぎていたりして、なかなか行く事ができないでいたという。「トウ・シューズ」の連載が終わったのは1998年8月号であるが、水沢はその後もバレエのレッスンを続けている。(以上、コミックスの欄外の「ひとことコーナー」と巻末の「バレリーナ物語」より)。集英社の『りぼん』や『Cookie』の公式サイトの、水沢のプロフィールのページには、趣味がクラシックバレエと書いてある。
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