闘争の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:51 UTC 版)
「タミル・イーラム解放のトラ」の記事における「闘争の経緯」の解説
1980年代に入ると、スリランカ政府は穏健タミル政党であるTULFを非合法化し、タミル人との対話を完全に断絶してしまう。一方、LTTEはゲリラの訓練をインド南部で行い、訓練キャンプを各地に設立し、本格的な武装闘争を展開し始める。 1983年7月23日、LTTEは地雷を用いた初めてのゲリラ攻撃を行い、政府軍兵士13人を殺害する。これをきっかけに7月25日、コロンボで大規模なシンハラ人によるタミル人への暴動(7月暴動、黒い7月)が起き、LTTEは分離独立運動を活発化していく。当初劣勢だった政府軍は、装備の充実に努め、1987年までにはLTTEを北部のジャフナに追い詰めることができた。 しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、タミル人に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。当時のスリランカ大統領ジャヤワルダナは、これに激怒し一時は宣戦布告も考えたが、結局交渉に入った。交渉での合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、武装解除の義務を負うこととなった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度はシンハラ人民族主義者がテロ活動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。インド平和維持軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることに決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。 1989年に当選したラナシンハ・プレマダーサ大統領は、大きくなりすぎたインド平和維持軍のプレゼンスを排除するために、LTTEとの交渉を再開し、休戦が発表された。存在意義を失ったインド平和維持軍は、スリランカ政府の執拗な要請の下、1990年3月に撤退した。同時にプレマダーサは、政府や与党統一国民党(UNP)要人へのテロを繰り返していたシンハラ人民族主義者組織であったスリランカ人民解放戦線(JVP)への掃討作戦を行い、4,500人から20,000人以上の死亡者が出たものの、JVPは武力闘争を放棄した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には元インド首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはプレマダーサ大統領を暗殺した。 1994年にチャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に当選し、三度LTTEとの交渉を再開したが決裂し、政府軍は大攻勢を展開して、1995年にLTTEの拠点ジャフナを奪取した。攻勢は継続されたが、決定的な勝利を収めることはできず、LTTEのテロにより治安情勢は顕著に悪化し、1998年には非常事態が導入された。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これによりクマーラトゥンガは視力を失った。 2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたが、LTTEの爆弾テロが止まらなかったため2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦破棄を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。インドのライバルである中華人民共和国とパキスタンの大々的な援助をとりつけたマヒンダ・ラージャパクサ政権はLTTEの完全殲滅を目指し、各所で攻勢を掛けた。最終的に2009年5月17日、LTTEは敗北宣言を出したがその後も政府側の攻撃は続き、プラバカラン以下23名のLTTE幹部は19日までに全員死亡した。
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