闘争と民主主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:48 UTC 版)
コスタリカはその地理的要因から、対外交易のほぼ全てが、太平洋側の港を経由して行われていた。1870年、グアルディアはこの現状を打破しようと、イギリスの金融会社と340万ポンドという莫大な借款契約を結び、大西洋鉄道の敷設を立案した。しかし、技術的な問題に加え、政治腐敗や資金不足によりこの計画は頓挫し、借金のみが残された。この負債を補うため、1871年、パナマ地峡よりバナナが導入されることとなる。 1884年、プロスペロはイギリスと負債の交渉を行い、鉄道の完成を引き受けたアメリカの企業家マイナー・キースと契約を結んだ。キースは1899年にボストンにユナイテッド・フルーツを設立すると、カリブ海全域のバナナ産業を独占した。 1890年までに鉄道敷設のための労働者が、国内外よりかき集められた。彼らの半数は鉄道敷設の労働が終わった後もコスタリカに残り、バナナ産業の労働者や、船舶への積み込み労働者となった。彼らはたびたび激しいストライキを決行し、1920年ごろまで、労働運動が盛んに行われた。こうした民衆の動きに呼応して、当時の大統領リカルド・ヒメネスは1913年、直接投票権を承認し、有権者に対する政治の責任をより明確にした。 19世紀終わりごろより国家はインフラを含む公共設備の投資に力をいれ、教育、保険、年金、公衆衛生といった設備が急速に揃いつつあった。1927年には公衆衛生省が、翌28年には労働省が設置された。インフラの充実は大衆文化の発展に寄与し、1920年には大衆スポーツとしてサッカーが登場した。また、ラジオは1930年ごろまでに一般庶民へ普及し、小さな箱から流れる音楽を楽しんだ。1930年には、アルマンド・セスペデスによる初の国産映画『帰還』が上映された。一方で酒場やビリヤード場では非合法化されていなかったアヘンやマリファナなどが売買されるなど、無法者の巣窟となった。 一見景気のよさそうな市場は、コーヒーとバナナというモノカルチャー経済の富に依存して出来上がっていたもので、非常に脆弱であった。1927年に起こった、コーヒーとバナナの値崩れや、1929年の世界恐慌は、こうしたコスタリカの経済に深刻なダメージを与えることとなった。
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