金正日の台頭と6カ年計画の混乱
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「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「金正日の台頭と6カ年計画の混乱」の解説
1970年、第一次7カ年計画は当初の予定よりも3年延長した上で、目標が達成されたと発表された。1970年には朝鮮労働党の第5回党大会が行われ、「唯一思想体系の確立」が党大会で採択された朝鮮労働党の党規約に明記され、金日成の絶対的権力が更に強化された。 1971年には6カ年計画がスタートした。しかしこの6カ年計画は1972年以降、大きな計画変更がなされることになる。計画変更の大きな原因の一つは韓国との南北対話の開始であった。1972年のニクソン大統領の訪中など、東西陣営間の緊張緩和のきざしが見え始めた中、韓国と北朝鮮は南北対話を開始し、「七・四共同声明」を発表した。その共同声明に至る話し合いの中で、北朝鮮代表団がソウルを訪問し予想外の韓国側の経済発展に驚き、6カ年計画当初にはなかった西側諸国からのプラントの導入を決定し、大規模な工業地帯の建設を開始した。 6カ年計画の当初計画からの変更にはもう一つ大きな原因があった。それは金正日の後継者決定の動きであった。1960年代後半から金日成の後継者として地歩を固めつつあった金正日は、1973年から1974年にかけて朝鮮労働党内で書記、政治局員となっていった。金正日は後継準備の一環として、生産現場に「思想、技術、文化」の三大革命を起こすことを目的として「三大革命小組」を北朝鮮各地の工場や農場などに派遣した。三大革命小組は1975年以降、三大革命赤旗獲得運動という大衆動員運動に発展していった。 また1974年、金正日は大衆動員による増産運動である「七十日戦闘」を指揮した。七十日戦闘は6カ年計画の繰り上げ達成を目指し、思想宣伝活動によって大衆の増産に対する熱意を掻き立てる運動であった。1975年9月には、6カ年計画は予定を1年4ヶ月繰り上げて達成されたと発表された。 6カ年計画期間中に行われた西側からのプラント購入と、金正日の経済への介入は北朝鮮経済に大きな禍根を残した。まず西側諸国からのプラントの導入は、折からの第一次石油ショックによる世界経済不況によって、北朝鮮の主要外貨獲得商品であった非鉄金属の価格が下落し、プラントの代金を支払えなくなるという事態を引き起こした。しかもせっかく導入したプラントで生産された物資は、主に北朝鮮国内の需要に当てられて輸出分は少量にとどまり、プラント自体の生産能力も当初の見込みに及ばなかったため、導入したプラントの活用によって外貨をまかなうことも叶わなかった。結局1970年代の北朝鮮対外債務の多くは返済されずに現在に至り、北朝鮮の国際的信用に大きな傷を作った。 金正日が指揮した三大革命小組や七十日戦闘は、経済の現場に大きな混乱をもたらした。生産現場に派遣された三大革命小組は実態とかけ離れた指導を行い、現場に大きな混乱を招いた。また増産運動は生産現場に無理を強いる結果となり、「成果」として報告される数字も実態からかけ離れたものになっていった。 1975年に繰り上げ達成が発表された6カ年計画であったが、続く経済計画は1978年になるまで開始されなかった。経済計画の空白期間は経済の調整が行われたものと発表されており、6カ年計画当初からの経済計画の変更や大衆動員による無理な増産運動、そして石油ショックの影響で北朝鮮が背負うこととなった対外債務の問題などで発生した経済の混乱を調整する必要があったのではないかと推定されている。
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