金正日体制末期から金正恩体制発足期まで
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「張成沢」の記事における「金正日体制末期から金正恩体制発足期まで」の解説
金正日が2008年8月に脳卒中で倒れ、回復後も左腕に後遺症が残ったこともあり、張の動向が注目された。張は金平一とともに、アメリカ政府から、金正日体制崩壊後のキーパーソンの一人として注目を集めた。 2009年2月15日、金正日の健康が悪化した際、張が三男の金正恩を後継者にするよう働きかけたと報じられた。同年4月9日、国防委員会委員に選出。 2010年6月2日、過去に張を失脚させ謀殺しようとしたと疑われている、金正日の後継者をめぐって対立関係にあった、張の最大の政敵だった李済剛が交通事故で死亡し、張が権力闘争で独走態勢に入る。この李済剛の死は、張成沢による謀殺返しであると疑われている。その5日後の同月7日、張は国防委員会副委員長に選出され、事実上の北朝鮮ナンバー2の地位を不動のものとした。これについては、金正恩を後継者にするための布石と言う見方と、正恩を後継者にすることを諦め、張自身を北朝鮮の次期最高指導者にするため、という2つの見方があった。 同年9月28日、第3回党代表者会議をうけて開催された中央委員会総会で政治局員候補に昇進。同時に金正恩も党中央軍事委員会副委員長に推挙され、これにより金正恩の後継者としての地位がほぼ確定した。 また、同年頃から外貨誘致に関する利権をめぐって、国防委員会副委員長の呉克烈との対立関係が始まったとされている。 2011年12月17日に金正日が死亡し、葬儀委員会の名簿には19位に名を連ねた(妻は14位)。当面の間は若い金正恩を後見人の張が謂わば「摂政」 としてバックアップする体制が取られるものとみられていた。 2012年4月11日の第4回朝鮮労働党代表者会では、朝鮮労働党政治局員候補から政治局員に昇格した。
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