金正日との権力闘争とは? わかりやすく解説

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金正日との権力闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 17:14 UTC 版)

金英柱」の記事における「金正日との権力闘争」の解説

1970年11月13日金英柱第5期党中央委員会第1回総会において政治委員委員昇格し党内序列第6位)、また書記秘書)にも再任されて、書記局内の序列党総書記である金日成から数えて第4位と、一躍上位進出した金英柱昇格について、日本アジア経済研究所発行するアジア動向年報1970年度版は、党の後継者として金英柱実質的に指名されたと評価した。しかし実際には、この頃金英柱金正日から後継者競争挑戦を受けるようになり、しかも形勢は、金日成歓心を買うことに成功し、父を支えパルチザン派の支持獲得していた金正日へと傾きつつあった。 1971年から始まった南北対話において、金英柱北朝鮮側の責任者務めた1972年7月4日には南北共同声明韓国同時に発表する役割担い北朝鮮署名者務め同声明により設置され南北調節委員会北側委員長となった。しかし、以後朴成哲によって実質的に南北交渉進められたといわれている。1973年9月開催され第5期党中央委員会第7回総会以降金英柱は公式の場に出席することが少なくなる日本ジャーナリストである平井久志は、金英柱はこの時期、金正日との権力闘争による精神的不調原因で健康を害してたとする1974年2月15日金英柱政務副総理副首相)に任命された。金日成特使としてアラブ諸国訪問し、また外国代表団歓迎行事などに出席はするものの、政務院の会議や党の会議での公式演説報告を行うことはなく、金英柱実質的な権限から遠ざけられていった金正日金日成後継者決定した直後1974年2月19日以降20日間にわたって続けられ講習会の場で、叔父である金英柱を「反党分子呼ばわりしたうえで、「金英柱同志は、病気口実わが党組織指導事業怠り組織むちゃくちゃにしてしまいました。われわれは、金英柱同志が党に及ぼした害毒除去しなければなりません」と批判し北朝鮮社会後世に至るまで規制することとなる「党の唯一思想体系確立の10大原則」を策定して、父・金日成への個人崇拝強め、「末端から中央に至る全ての組織新しい党事業気風確立するため、思想闘争無慈悲に展開しなければなりません」と宣言した金英柱は、副総理の職は1977年12月まで務めたものの、1974年2月第5期党中央委員会第8回総会金正日金日成後継者決定されると、翌年7月3日南北共同声明発表三周年声明出したのを最後に失脚し、公式の場から姿を消した降格後の彼は慈江道隠遁生活送ったといわれる

※この「金正日との権力闘争」の解説は、「金英柱」の解説の一部です。
「金正日との権力闘争」を含む「金英柱」の記事については、「金英柱」の概要を参照ください。

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