金正日との権力闘争
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1970年11月13日、金英柱は第5期党中央委員会第1回総会において政治委員会委員に昇格し(党内序列第6位)、また書記(秘書)にも再任されて、書記局内の序列は党総書記である金日成から数えて第4位と、一躍上位に進出した。金英柱の昇格について、日本のアジア経済研究所が発行する『アジア動向年報』1970年度版は、党の後継者として金英柱が実質的に指名されたと評価した。しかし実際には、この頃の金英柱は金正日から後継者競争の挑戦を受けるようになり、しかも形勢は、金日成の歓心を買うことに成功し、父を支えるパルチザン派の支持を獲得していた金正日へと傾きつつあった。 1971年から始まった南北対話において、金英柱は北朝鮮側の責任者を務めた。1972年7月4日には南北共同声明を韓国と同時に発表する役割も担い、北朝鮮側署名者を務め、同声明により設置された南北調節委員会北側委員長となった。しかし、以後は朴成哲によって実質的に南北交渉が進められたといわれている。1973年9月に開催された第5期党中央委員会第7回総会以降、金英柱は公式の場に出席することが少なくなる。日本のジャーナリストである平井久志は、金英柱はこの時期、金正日との権力闘争による精神的不調が原因で健康を害していたとする。1974年2月15日、金英柱は政務院副総理(副首相)に任命された。金日成の特使としてアラブ諸国を訪問し、また外国代表団の歓迎行事などに出席はするものの、政務院の会議や党の会議での公式演説や報告を行うことはなく、金英柱は実質的な権限から遠ざけられていった。 金正日は金日成の後継者に決定した直後の1974年2月19日以降20日間にわたって続けられた講習会の場で、叔父である金英柱を「反党分子」呼ばわりしたうえで、「金英柱同志は、病気を口実にわが党の組織指導事業を怠り、組織をむちゃくちゃにしてしまいました。われわれは、金英柱同志が党に及ぼした害毒を除去しなければなりません」と批判し、北朝鮮社会を後世に至るまで規制することとなる「党の唯一思想体系確立の10大原則」を策定して、父・金日成への個人崇拝を強め、「末端から中央に至る全ての組織に新しい党事業気風を確立するため、思想闘争を無慈悲に展開しなければなりません」と宣言した。金英柱は、副総理の職は1977年12月まで務めたものの、1974年2月の第5期党中央委員会第8回総会で金正日が金日成の後継者に決定されると、翌年7月3日に南北共同声明発表三周年声明を出したのを最後に失脚し、公式の場から姿を消した。降格後の彼は慈江道で隠遁生活を送ったといわれる。
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