野口英世とは? わかりやすく解説

のぐち‐ひでよ【野口英世】


野口英世 のぐち ひでよ

野口英世の肖像 その1

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

野口英世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 09:22 UTC 版)

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年明治9年)11月9日[1] - 1928年昭和3年)5月21日)は、日本医師細菌学者栄典は、正五位勲二等旭日重光章学位医学博士京都大学)、理学博士東京大学)。


注釈

  1. ^ 野口家は代々貧農の家系であった。清作の母のシカは勤勉で真面目な性格であり、その性格が清作にも受け継がれたと言われる。一方、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父の佐代助は、好きの怠け者で野口家の貧困に拍車をかけていたと言われ、清作の放蕩で多額の借金を重ねる悪癖は父親譲りであったとも言われている。しかし、父・佐代助は寺子屋に通って読み書きを習得しており、25年間にわたって逓送人(郵便配達人)を務めていた。また妻のシカは「おとっつあは天神様を背負ってきたんだべ」と言っており、清作の師・小林栄は著書の『博士の父』の中で「多くの人は父(佐代助)が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまりにも気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で無邪気な人である。手先の器用な人で、農業などしても巧者な人であった。」と評している(http://www.minyu-net.com/serial/isei/isei34.html 野口英世の父・佐代助])。
  2. ^ 当時の医者は内科的漢方医が主流で、農村では医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識にて祈祷師による医学的根拠の薄い民間治療に頼る傾向もあり、大火傷を負った清作の左手を完治させることはほぼ不可能に近い状況で、結果的に彼の指は癒着してしまった。明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を田舎へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はいなかった(仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うことができなかった可能性が高く、たとえ治療費を払えるだけの経済力があったとしても当時で清作の左手を完全に元通りにできる治療までは医療技術的に殆ど不可能であった事も暗示されている)。
  3. ^ 当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母のシカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里〜二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、清作が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。
  4. ^ 当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で小学校卒業時の成績は首席であった。
  5. ^ ボッコとは会津弁で下駄や雪靴、スキー板の裏に付着する雪の塊のこと。多くの伝記では「てんぼう」(手が棒)と翻訳されて伝わっている[4]
  6. ^ 当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は清作のために自ら学費を援助しており、当時の清作に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、清作自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。清作は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する清作の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、清作は右手でを持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、清作が学校に持って行く弁当は箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。
  7. ^ 清作に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。
  8. ^ 多くの伝記で、この後期試験の受験者数80人のうち合格者数は4人のみだったとしているが、この数字は奥村鶴吉が1933年に出版した伝記の誤りが広まったもので、実際にはこのときの後期試験の受験者数は1084人、合格者数は224人である。また(野口を含む)済生学舎の在籍者は平均より合格率が高く、約800人の在籍者のうち、この年の春秋2回の後期試験で合わせて391人が合格している[7]
  9. ^ 伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に野口が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も野口に対して便宜を図っており、また野口もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、野口と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を考慮すると、22歳で紹介入所した野口が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、野口は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に野口は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。
  10. ^ 「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった英世の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、逍遙は後に「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。
  11. ^ 斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。
  12. ^ ミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいた。
  13. ^ a b c 同時期に同じ研究室で仕事をしていたハンス・ジンサー(Hans Zinsser)は、野口の方法により繰り返し純粋培養された野口株が病原性を失い、非病原性の梅毒スピロヘータの混入により変成した可能性があると報告した[8]。一方、野口の報告に遅れて単離されたニコルズI株は、純粋培養には失敗したものの病原性を有し[9]、生きた動物の睾丸を介して継代培養されて来た。試験管内でのニコルズI株の培養は、1981年にハワード・フィールドスティールらによって成功が報告され、別のグループによって独立に追試されたが、死んだウサギの睾丸の組織を培地としており、現在でも完全な純粋培養の報告例はない[10]。今日野口株として保存されている標本の遺伝子の型は、病原性のTreponema pallidumではなく、非病原性のTreponema refrigensという別種のものであり、両者ともに1905年にドイツのフリッツ・シャウディン(Fritz Schaudinn)とエーリヒ・ホフマン(Erich Hoffmann)らのグループによって梅毒患者から単離と新種記載を報告された梅毒スピロヘータである。非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema refrigensと、野口本人が1912年に新種記載と純粋培養を報告した別の非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema phagedenis [11] とは、野口の純粋培養の報告と前後して他に5例の純粋培養が報告されており、野口が最初ではない。また一般に非病原性梅毒スピロヘータを含むトレポネマ属は嫌気性細菌であり、野口も病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素の完全な除去が必須であると強調し、独自の酸素除去の実験項を含めて論文に報告したが、後に病原性梅毒スピロヘータであるTreponema pallidumがトレポネマ属としては例外的に酸素を必要とする微好気性細菌であることが判明し、フィールドスティールらのニコルズI株の試験管培養も1.5%の酸素濃度下で成功しており、病原性梅毒スピロヘータの培養には酸素濃度のコントロールが重要であった。野口が報告した方法では病原性梅毒スピロヘータの増殖が困難であることから、現在では野口は病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には成功していなかったと考えられている。
  14. ^ 1930年に黄熱ワクチンを完成させ、1951年にその功績でノーベル医学賞を受賞する。
  15. ^ 野口の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で野口が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが黄熱病ウイルスの発見およびワクチンの開発によりノーベル賞を受賞したマックス・タイラーにより示された。また死去直前の秘書宛書簡にて英世は黄熱病原が濾過性病原体であることを認めている。1920年の論文[37] において野口は結論において「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」[38] と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後野口の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける野口の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。
  16. ^ これは野口による唯一のノーベル賞推薦であった。
  17. ^ 継代培養された野口株からは病原性が喪失していたこと、非病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は前例があること、英世の報告した培養条件である完全無酸素下では病原性梅毒スピロヘータは増殖しないことなどが問題点である。
  18. ^ 令和6年(2024年)以降発行分に予定されている紙幣刷新により、北里柴三郎に変更されるまで。

出典

  1. ^ a b c d 野口英世記念財団
  2. ^ a b c 会津若松市 野口英世について
  3. ^ 仲野徹『生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究 』河出書房新社、2019年
  4. ^ 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p403
  5. ^ 血脇守之助ちわきもりのすけ ~野口英世の育ての親~”. 我孫子市歯科医師会. 2020年7月31日閲覧。
  6. ^ 若松栄町教会のあらまし”. 日本基督教団若松栄町教会 (2013年5月3日). 2024年3月20日閲覧。
  7. ^ 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p43-48
  8. ^ (a) Zinsser, H.; Hopkins, J. G.; Gilbert R. "NOTES ON THE CULTIVATION OF TREPONEMA PALLIDUM" J. Exp. Med. 1915, 21(3), 213-221. (b) Zinsser, H.; Hopkins, J. G. "ANTIBODY FORMING AGAINST TREPONEMA PALLIDUM-AGGLUTINATION" J. Exp. Med. 1915, 21(6), 576-582.
  9. ^ (Nichols, H. J.; Hough, W. H. "Demonstration of Sprochaeta pallida in the cerebrospinal fluid from a patient with nervous relapse following the use of salvarsan" J. Am. Med. Assoc. 1913, 60, 108-110.
  10. ^ (a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. "Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. "In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439.
  11. ^ Noguchi, T. "PURE CULTIVATION OF SPIROCHÆTA PHAGEDENIS (NEW SPECIES), A SPIRAL ORGANISM FOUND IN PHAGEDENIC LESIONS ON HUMAN EXTERNAL GENITALIA" J. Exp. Med. 1912, 16(3), 216-268.
  12. ^ 『官報』第8302号、明治44年2月27日、pp.672-673
  13. ^ 『官報』第632号、大正3年9月8日、p.163
  14. ^ 100年の時を経た野口英世のカラー写真(同窓会報第401号より)”. 東京歯科大学同窓会. 2020年7月26日閲覧。
  15. ^ 帝国学士院編『授賞審査要旨 大正4年』帝国学士院、1915年、pp.1-4 国立国会図書館デジタルコレクション
  16. ^ 半旗を掲げるロックフェラー研究所『大阪毎日新聞』昭和3年5月24日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p602 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  17. ^ 米国各紙が弔詞を掲載『東京日日新聞』昭和3年5月24日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p602)
  18. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p406。
  19. ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」大正15年(1926年)2月2日。
  20. ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p157、イザベル・R. プレセット『野口英世』1987年、p163
  21. ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p221
  22. ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p216
  23. ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p120
  24. ^ 浅倉稔生『フィラデルフィアの野口英世』三修社、1987年、p146
  25. ^ a b c d Lederer, Susan E. Subjected to Science: Human Experimentation in America before the Second World War, Johns Hopkins University Press, 1995/1997 paperback
  26. ^ Noguchi H (1912). “Experimental research in syphilis with especial reference to Spirochaeta pallida (Treponema pallidum)”. JAMA 58 (16): 1163–1172. doi:10.1001/jama.1912.04260040179001. 
  27. ^ Noguchi H (1911). “A cutaneous reaction in syphilis”. J Exp Med 14 (6): 557-568. https://rupress.org/jem/article/14/6/557/6737/A-CUTANEOUS-REACTION-IN-SYPHILIS. 
  28. ^ デイヴィッド・ロスマン『医療倫理の夜明け』
  29. ^ Lederer SE. "Hideyo Noguchi's Luetin Experiment and the Antivivisectionists", Isis, Vol. 76, No. 1 (March 1985), pp. 31-48
  30. ^ "Too Much Courtesy," Life, 1912, 60, 2495. 55. Cited in Lederer, 1995, Subjected to Science p. 85
  31. ^ Susan E. Lederer. Subjected to Science: Human Experimentation in America before the Second World War. Johns Hopkins University Press, 1997. pp. 86-7.
  32. ^ イザベル・R. プレセット『野口英世』1987年、p160
  33. ^ 仲野徹『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』学研メディカル秀潤社、2011年
  34. ^ a b c 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p164
  35. ^ a b c 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p165
  36. ^ (a) Noguchi, H.; Moore, J. W. "A DEMONSTRAION OF TREPONEMA PALLIDUM IN THE BRAIN IN CASES OF GENERAL PARALYSIS" J. Exp. Med. 1913, 17(2), 232-238. (b) Noguchi, H. "The Transmission of treponema pallidum from the brains of paretics to the rabbit" J. Am. Med. Assoc. 1913, 61, 85.
  37. ^ LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.
  38. ^ 原文は「But until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.」
  39. ^ 『背信の科学者たち』5章、Noguchi and His Patrons
  40. ^ 1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編
  41. ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p226
  42. ^ Hideyo Noguchi - Nomination Database(ノーベル財団)
  43. ^ 図書館だより 第148号 - 福島県立図書館(2004年8月6日)
  44. ^ 天野祐吉『嘘八百これでもか!!! -昭和戰前編-』文春文庫ビジュアル版V50-10 ISBN 4-16-810823-6 1994年 P.166-167
  45. ^ 野口英世記念医学賞
  46. ^ 感染症の早期封じ込めを目指す:ガーナの野口記念医学研究所に「先端感染症研究センター」が完成”. JICA (2019年). 2020年2月1日閲覧。
  47. ^ 野口英世の里郵便局
  48. ^ 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭) (2009年10月7日). “野口英世の父・佐代助 ”天才”の血受け継ぐ人物?”. 福島民友. 2018年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月20日閲覧。
  49. ^ a b c 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、あとがき
  50. ^ a b 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p241-p259 『野口英世 知られざる軌跡』1992年、13章



「野口英世」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



野口英世と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「野口英世」の関連用語

野口英世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



野口英世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
国立国会図書館国立国会図書館
Copyright (C) 2024 National Diet Library, Japan. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2024 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの野口英世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS