逮捕と収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:44 UTC 版)
「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」の記事における「逮捕と収容」の解説
1945年2月、東プロイセンの前線でソルジェニーツィンは小学校時代の友人ニコライ・ヴィトケヴィッチへ送った手紙の中で、スターリンのことを「ホジャイン」(主人の意)「バラボス」(ヘブライ語で家の主人を意味するbaal ha-bayiθをイディッシュ語で表した物)と表し、暗にスターリン批判をしたとして逮捕された。彼はソ連の刑法58条第10章「反ソプロパガンダ」および第11章「敵対的組織の設立」の容疑で起訴され、モスクワのルビャンカ収容所に連行され査問を受けた。同年7月7日、ケーニヒスベルクでの欠席裁判で懲役8年を宣告された。これは当時刑法第58条に反した者に下されるごく一般的な判決であった。 刑期の初めは幾つかの労働収容所での労働を強いられる。後に彼が「中期」と語った時期は囚人数学者としてシャラシュカと呼ばれる内務省国家保安局特殊研究所に収容され、ここでレフ・コペレフと出会う。コペレフは『煉獄のなかで』に登場するレフ・ルービンのモデルとなった人物であった。1950年にはカザフスタンのエキバストスに新設された政治犯専用の特別収容所に送られ、雑役工、石工、鋳工として3年間を送る。エキバストスでの経験は『イワン・デニーソヴィチの一日』執筆の基礎となった。仲間の政治犯の一人、イオン・モラルはソルジェニーツィンがエキバストスで自らの時間を執筆に費やしていたことを語っている。エキバストス収容時に腫瘍を患い手術を受けたものの完治しなかった。 1953年3月、8年の刑期を終え1箇月が経ったとき、釈放されずにカザフスタン北東部への永久流刑が決定。当時の政治犯にとっては一般的な刑罰だった。同年末までに診断未確定であった癌が進行し死線を彷徨うが、翌年タシケントの癌病棟での治療が許可され、腫瘍の進行は小康状態となった。そこでの経験は『ガン病棟』の執筆の基礎となり、短編『右手』にも影響を与えている。投獄と追放の十年間でソルジェニーツィンはマルクス主義を放棄し、後年の人生に於ける哲学的、宗教的な立場を確立した。この転向は、100年前にフョードル・ドストエフスキーがシベリアでの流刑に於いて思想的変化を経験したのと幾つかの興味深い類似点が存在する。ソルジェニーツィンは獄中生活および強制労働の結果、徐々に哲学的志向のクリスチャンへと変化した。彼は赤軍士官としての幾つかの行動を後悔し、強制収容所の囚人と自らを比較した。「私は大尉としての肩章と、炎に包まれた東プロイセンを進軍する私の中隊を覚えています。そして言いました『それで、我々はいくらか良かったか?』」彼の変化は『収容所群島』第4章の中に描写されている。また、この流刑の時期に紙やペンも無い状況で書かれた28の詩はソルジェニーツィンの知的、精神的な長期の旅を理解するための貴重な資料である。これら初期の未発表作品は1999年にロシア語で初めて発表され、2006年に英語で抜粋して発表された。
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