逮捕と刑死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 09:11 UTC 版)
「フランツ・イェーガーシュテッター」の記事における「逮捕と刑死」の解説
数度の延期の後、イェーガーシュテッターは1943年2月23日に遂に兵役へ就くことになった。夫妻の間の娘たちは、長女ですらまだ6歳になろうかというところだった。彼は反ナチス・ドイツという立場を変えることなく、3月1日にエンス(英語版)のドイツ国防軍駐屯地に出向き、良心的兵役拒否を宣言した。衛生兵として働きたいというイェーガーシュテッターの申し出は無視された。彼は即座に逮捕・拘置され、最初はリンツ再拘留所で、また5月4日からはベルリン・テーゲル(英語版)で収監された。村からの司祭が監獄の彼を訪ね、応召について説得しようとしたが失敗に終わった。イェーガーシュテッターはオーストリアの司祭フランツ・ライニシュ(英語版)がヒトラー宣誓(英語版)を拒んで処刑されたと聞き、自分も同じ道を進もうと決めた。 「ヴェーアクラフトツェアゼッツング(英語版)」(士気低下の罪の意味)に問われたイェーガーシュテッターは、ベルリン=シャルロッテンブルク(英語版)にあった帝国軍事法廷(英語版)で1943年7月6日に死刑判決を受ける。その後ブランデンブルク=ゲルデン刑務所(英語版)に強制送還され、8月9日の午後にギロチンで処刑された。36歳だった。戦後の1946年、修道女たちが彼の遺灰を持ち帰り、故郷ザンクト・ラデグントの墓地に埋葬された。
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