退職まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:45 UTC 版)
入江が今城について問題視したのは、下記の点などについてである。 今城が「真の道」という宗教団体の熱心な信者であり、香淳皇后にも影響を与えていると入江は考えていた。 今城が宮中祭祀の厳格な実行に熱心で、しきたりを守らない侍従らを手ひどく叱責するなどして敬遠されていた。 宮中祭祀を厳格に実行しようとする今城は、高齢の昭和天皇の健康を気遣い宮中祭祀の実施方法を簡略化しようとしていた入江らと、相容れなかった。また、香淳皇后が次第に厳格な今城に感化されてしまい「日本の国がいろいろをかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけない」「(賢所の冷暖房工事に反対して)神聖な賢所には釘一本、打つことは許されません。そのくらい我慢おできにならぬお上ではない」などと、天皇の健康を省みない程度にまで祭祀簡略化に反対するようになった。ただし、『入江相政日記』昭和45年大晦日の記述によると、厳格化について香淳皇后は「ただ私が考えるだけ」と述べており、今城の影響によるものかどうかは不明である。 1971年の天皇皇后の訪欧などの機密情報が早い段階から今城に漏れている形跡があった(今城がフランス語の学習を始め、訪欧がその直後の同年2月20日付け朝日新聞にスクープされる等の現象が起きた。) 1971年4月、入江はついに皇后の抵抗(一時は欧州訪問への同行を拒むほどであった)を押し切って、訪欧に随行する女官の人選から今城を排除する。5月には宮内庁長官の宇佐美毅が昭和天皇に今城の問題点を洗いざらい奏上、続いて、欧州訪問の「お供がいけないといふのに置いておけないといふ理由で罷免のお許を得る」という事態になり、遂に今城は同年7月29日をもって依願退職することとなった。 今城がこの間、香淳皇后はもちろん高松宮妃喜久子までも動かし、入江側についた北白川祥子女官長の更迭などを画策したが、昭和天皇が入江を支持したため、今城の画策は失敗に終わった、と入江は日記の中で述べている。 今城は皇后から当初の退官予定日だった1971年6月30日に、「この度御上にざんげんする者あり残念なことですが退職させる様な事になりましたが良き時期に再任します 昭和四十六年六月三十日 良子」という拇印入りの手紙を拝受したり、退官後の新居が完成する迄の間、赤坂御用地内に仮住まいを許されたが、香淳皇后がこの仮住まいに電話をかけていることが知られると、宮内庁から電話を撤去されてしまった。再任は空手形に終わったが、御用地からの引っ越しの朝、三笠宮妃百合子御手づからのおにぎりが届けられるなど、香淳皇后を始めとする一部の皇族は、今城を好意的に評価していたようである。
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