辰野金吾による駅舎設計
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「東京駅の歴史」の記事における「辰野金吾による駅舎設計」の解説
バルツァーの提案した日本風の駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではなかった。このため改めて駅舎についての設計が行われることになり、当時の建築界の権威であった辰野金吾に依頼されることになった。辰野は自身で、日本銀行本店、中央停車場、国会議事堂の3つを手掛けることを目標としていたこともあり、辰野に依頼するのは当然視されたためか、依頼の経緯についてははっきりしたことがわかっていない。1903年(明治36年)12月に辰野に設計が依頼された。設計に際して辰野が受けた注文は、バルツァー案では建物が5棟並べられていてみすぼらしいので、建物を連続させて見栄えを壮観なものにしてほしい、ということであったとされる。結果的に辰野率いる辰野葛西建築事務所による駅舎設計は足掛け8年にも及ぶものとなった。 まず1904年(明治37年)早々に第1案の設計ができあがってきた。中央に皇室専用口を、両側に乗車口と降車口を配する基本的な構造はバルツァー案と同一で、これらの出入口については3階建て、それらをつなぐ部分は1階建てか2階建ての構造であった。これは、通過式の配線の駅構造に対応するために全長が300 m近いものとならざるを得ないのに、建築予算がわずか42万円と提示されていたため、出入口の間は低い建物でつなぐものとせざるを得なかったためであった。この時点で既に両翼の八角ドームの形態は現れており、ほぼそのまま最終案にまで残っている。さらに辰野はいくらか修正を繰り返しながら設計を進め、第2案が生み出された。規模は第1案とほぼ同じで屋根周りの表情を整えたものであった。しかし予算の限界もあり、この段階ではこの程度の設計であった。 その後国有鉄道を管轄していた鉄道作業局の帝国鉄道庁・鉄道院への改組などもあって設計作業は遅延した。しかし日露戦争における日本の勝利で国民感情が盛り上がったことや、1906年から1908年にかけて実施された鉄道国有化の影響もあり、一挙に駅舎の規模が拡大することになった。それまで予算は65万円と見積もられていたのが一挙に250万円とし、総3階建て構造にする方針が1907年(明治40年)に報じられている。これに関して、「後藤の大風呂敷」と呼ばれる初代鉄道院総裁の後藤新平の意向とする説もあるが、しかし後藤が鉄道院総裁に就任した1908年(明治41年)12月の時点では設計はほぼ完了して基礎工事が開始されていたので、後藤の意向以前に駅舎規模の拡大は決まっていたとする見解もある。 こうして第3案では、両翼に乗車口・降車口を、中央に皇室口を配する基本はそのままに、これらをつなぐ中間の部分を総3階建て構造とし、これにより水平線が通って建物のまとまり感が生み出された。第3案では皇室口の上に小さな塔が残されていたが、この塔を撤去したものが最終案となって建設されることになった。1910年(明治43年)12月、中央停車場の設計作業が最終的に完了した。 設計された駅舎は鉄骨煉瓦造のもので、荷重を煉瓦の壁面だけではなく鉄骨を組んだ柱や梁で支える構造になっている。煉瓦のみで建物の強度を確保していた時代には、壁は肉厚のものとなって内部の面積が狭くなり、窓や扉などの開口部の面積も制約を受けていたが、東京駅では鉄骨が強度を受け持つことによって壁を薄くでき、煉瓦の建物としては大きな室内面積を確保できている。また鉄筋コンクリートの適用が始まる時代の建物であり、それまで煉瓦造の建物では内部の床に木材を使うことが多かったが、東京駅では防火構造の鉄筋コンクリートスラブを床材に使っており、こうした材料の組み合わせによって大きなドームを備えた建物を可能としている。 この辰野金吾設計の駅舎は、ペトルス・カイペルス(オランダ語版)設計で1889年に完成したオランダのアムステルダム中央駅を参考にしたと言われることがある。しかし辰野がオランダを訪れた記録はなく、またアムステルダム中央駅を参考にしたと本人が述べた記録もない。さらに建築的に言えば、アムステルダム中央駅は垂直線を強調したゴシック建築を基本としながらルネサンス風を加味した設計であるのに対して、東京駅は帯石により水平線を強調したルネサンス建築という違いがあり、明らかに異なっている。当時のように鉄筋コンクリートの技術が発達していなかった時代には大規模な建物は煉瓦積みか石積みで造るほかなく、またどちらの駅も通過式の配線を前提にその線路の脇に駅舎を配置することから、構成は類似せざるを得ないとの解釈がある。またオランダのゴシック・リヴァイヴァル建築は、辰野と関わりのある歴史主義建築に通底していることもあり、両者が似た印象を持つことはある意味必然であると指摘されている。
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