軽戦車1935年型H-1939年改
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「オチキス H35」の記事における「軽戦車1935年型H-1939年改」の解説
騎兵部隊はより以上の最高速度を欲したため、1936年10月以降すでに行われていたテストに従って、より強力なエンジンの搭載が決定された。新しい試作車が1937年に製作されたが、これは従来の78馬力に替えて、120馬力のエンジンを搭載していた。新型エンジン搭載に伴って後部エンジンルームはかさ上げされ、履帯とサスペンションも改良され、これに伴い重量も12.1トンに増加していた。この改良型は最高速度が36.5km/hにまで引き上げられているだけでなく、操縦も容易になっていた。 試作車は1939年1月31日、まず、従来型への否定的評価を覆せるかどうかを賭けて、歩兵科の試験委員会(Commission d'Expérimentations de l'Infanterie)に提出された。委員会では即座に性能向上の成果を認め、「オチキス製軽戦車1935年型-1939年改」(Char léger modèle 1935 H modifié 39)として採用、2月18日、通算401号車から新型へと生産を切り替えることを決定した。これは、すでに1937年と1938年の200輌の旧型発注分の生産が始められていたためである。その後、新型の発注は900輌にまで増やされた。 なお、この戦車の工場における識別名は「オチキス軽戦車38年型Dシリーズ」(Char léger Hotchkiss modèle 38 série D)で、旧型は「Bシリーズ」と呼ばれていた。こうしたことが、戦車の名称に混乱を招く結果となっている。公式には、この戦車は旧型・新型を通してH35だが、当時すでに、新型は「38H」もしくは「39H」と呼ばれ始めていた。 新型は、旧型に比べより背が高く、角張ったエンジンデッキを持っていた。新型の中でも初期の生産車は、デッキ右側のグリルが縦方向だったが、これは直に横方向に変えられた。航続距離は120kmに減少、誘導輪はスポーク状のリブのないタイプに、履帯は2cm広げられて27cm幅に、転輪はゴムリム付きに替えて全鋼製に、マフラーは後ろ向きになり、そしてより大型のベンチレーターが設けられた。 1940年初め、さらなる近代化計画が始められた。これは(一部旧型のH35も含めて)、新型の外部観察装置、超壕能力を増すための尾橇、無線装置、そして対戦車能力を高めた長砲身35口径37mm砲SA38(距離1000mで30mmの貫徹力)を漸次導入するというものだった。新規生産車については同年4月から新型砲が標準化されたが、それ以前に、1940年1月以降、既に配属されている車両に関しても、小隊・中隊・大隊の隊長車を中心に徐々に換装されていった。結果、約半数の隊長車が長砲身装備型となり、計画では1940年後半には全ての車両が換装されるはずであった。 戦後、新型エンジンを持ち、長砲身砲装備でないタイプを「H38」、両方の改良が施されたタイプを「H39」とするのが公式名であるとの誤解が広まった。これは多くの二次資料で現在もなお一般的に使われている。しかし、実のところ「H38」と「H39」はどちらも(武装にかかわらず)新エンジン搭載車体を指す名称であり、戦時中は新エンジン付き車体について、武装の別による呼び分けは行われていない。武装により「H38」「H39」と呼び分けるのは、あくまで非公式な、便宜的なものである。また、ルノー R40の開発と並行して、オチキスにおいてもAMX製サスペンションを付けた「H40」の製作が検討されたが、結局この案は放棄された。
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