軍用気球の制作
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ローは軍用で使われる気球は民間の操縦士が使う通常の気球よりもうまく作られるべきと考えた。戦場で使うためには特別な操作と用心も必要だった。当時の気球は市営の石炭ガス供給基地で膨らまされ、膨らまされたまま地上員によって現場まで曳航された。ローは現場で気球にガス充填ができるように、携帯可能な水素ガス生成器の開発が必要であると認識した。しかし、管理部門の士官として待遇され、通常は少佐以下の扱いだったので、資材を購入するための予算は諦めるしかなかった。 ローは野砲の効果的使用法を変えるという目的で別のデモンストレーションを行うために呼び出された。1861年9月24日、ワシントンD.C.の南、コーコラン砦に行くよう指示を受け、そこから上昇して遙か南にあるバージニア州フォールズチャーチの南軍宿営所を見下ろすことになった。遠く離れたキャンプ・アドバンスに見えない北軍の砲台があった。ローはフォールズチャーチにめくら撃ちする砲台に旗信号で指示を送ることとされた。各信号は左へ、右へ、手前へあるいは遠くへという調整を指示するものだった。同時に報告が電報でも砦の作戦本部に伝えられた。数回の調整で砲台からの砲弾は正しく標的を捉えるようになった。この方法は砲撃前進観測者の先駆けとなった。 翌日ローは4基の気球と水素ガス発生器の制作命令を受けた。ローはフィラデルフィアの自分の施設で制作に取り掛かった。その制作のために提案していたインド・シルクと綿の紐を発注する予算を与えられた。それと共に気球のガスが漏れにくくなるワニスについて未公開の処方箋も実現した。 水素ガス発生器はワシントン海軍造船所で指物師の親方が作った。銅管とタンクを組み合わせて硫酸を満たし、鉄片を入れれば水素ガスが発生した。この発生器はロー自身の設計だったが工学の驚異と考えられた。それらは木箱に入れられるよう工夫され、それで容易に普通の荷車に合うようにされた。この発生器は気球制作よりも時間が掛かったので、最初の気球には間に合わなかった。 1861年10月1日、第1号の気球ユニオン号が使用可能となった。携帯用ガス発生器は無かったが、即座の任務に呼び出された。気球はワシントンでガス充填され、夜通し曳航されてチェイン・ブリッジ経由でルインズビルまで移動した。ポトマック川上流でバージニア州フェアファックス郡に入るには、屋根付きで格子構造の橋を通るために、気球を引っ張る者達は橋の桁や水平材の上を這って進む必要があった。気球と隊員は日の出までに到着したが夜通し9時間の試練で疲れ切っていた隊員は強風に煽られて気球を逃がしてしまった。気球は後に回収されたが、ローはこの事故で落胆しており、適切な装置を供給するのに遅れたことで厳しい批判を浴びた後のことだった。 ローは7基の気球を製作した。そのうち6基は任務に使われた。それぞれの気球に2台のガス発生器が付けられた。小さな気球は風の強い日、あるいは素早く1人で低高度に上がるときに使われた。ガスが少なくて良かったので直ぐに膨らませることができた。以下は小型気球である。 イーグル コンスティチューション ワシントン 大型の気球は重量の多いとき、例えば電報用電鍵や操縦士として1人余分に乗せる時に使われた。高々度に昇ることができた。以下は大型気球である。 ユニオン インターピッド(ローのお気に入りの気球) エクセルシア ユナイテッド・ステイツ 最後の2基はワシントンの倉庫に保存された。最終的にエクセルシアは高緯度の観測基地キャンプ・ローに送られ、厳しい冬季の間インターピッドの補助気球として使われたが、ユナイテッド・ステイツは一度も任務に就かなかった。ラマウンテンはローに対する罵倒の中でこの2基の気球を引き合いに出し、終戦の時に未使用のままでローが買い取ることができるように「蓄えていた」と言った。
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