軍用機への転用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:58 UTC 版)
「Fw 200 (航空機)」の記事における「軍用機への転用」の解説
1939年の第二次世界大戦の勃発時に長距離偵察機が不足していたドイツ空軍は、本機を長距離哨戒爆撃機として使用することにした。最初に導入されたC-1型は民間型の胴体下面に大型のゴンドラを設け、そこに250 kg爆弾5発を搭載した他、ゴンドラの前後に銃座を装備した。また両翼の外側エンジンナセルの外側に懸架装置を取付けて爆弾または増槽を懸架することが可能だった。初期の運用は空軍パイロットではなくルフトハンザの徴用操縦士が行なっている。 Fw 200は1939年11月から実戦に投入され、北海に展開するイギリス艦隊の攻撃に使用された。その後1940年にフランスが降伏した後はフランス大西洋岸に進出して通商破壊にあたり、イギリスに向けて航行する商船を狙ってイギリス近海に出没、35万トンを越える商船を沈めた。また長い航続力を生かして、フランスからイギリスを迂回してノルウェーまでの哨戒飛行も実施している。Fw 200は船団を発見するとUボートを呼び寄せるため、「大西洋の疫病神(Scourge of the Atlantic)」と恐れられた。 しかし生産は遅々として進まず、1941年夏までに部隊配備されたのはわずか30機弱で(実際に飛行できる稼働数はもっと少ない)、艦隊に壊滅的な打撃を加えるには機体数が少な過ぎた。この頃には輸送船団がCAMシップや護衛空母の戦闘機で守られはじめ、本機の対戦闘機防御が貧弱だったため被害が続出するようになった。また元々が民間輸送機であったために、機体構造が戦闘時の厳しい操縦に耐え切れず、機体が破壊されて墜落したり、着陸時に胴体が折れてしまうといった事故も多発した。機体を補強し防御武装や爆弾搭載量を強化したC-3型が1941年夏に投入されたが、イギリス船団の防御も強化されたため効果があがらず、本機は活動の場を北海や地中海に変更することになった。 その後、Hs 293誘導ミサイルの母機として利用されることはあったものの、1943年には哨戒爆撃任務から外され、輸送任務に従事するようになった。輸送機としてのFw 200は、1943年のスターリングラード攻防戦で輸送任務に参加している。ナチ党や国防軍の高官専用機として利用された機体もあった。Fw 200は1944年に生産が終了するが、生産されたのは276機であった。
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