軍歴、政治的役割
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「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の記事における「軍歴、政治的役割」の解説
ニコライは、ニコライ工兵学校で学び、1873年に任官した。1876年、ニコライ参謀本部アカデミーを卒業。1877年に始まった露土戦争では総司令官を務める父の参謀を務めた。ニコライはこの戦争で2度戦功を立て、四等聖ゲオルギー勲章と金製武器を授与されている。1878年、近衛驃騎兵連隊に配属され、中隊長、大隊長を務め、1884年には連隊長に任じられた。ニコライは軍人として順調に出世、1890年11月に第2親衛騎兵師団第2旅団長、同年12月に師団長となった。大公は気骨のある司令官と評価され、また麾下の軍隊の尊敬を集めてもいた。彼は戦闘における指揮官というよりは兵士の訓練教官に向いた性格だった。 ニコライは非常に信心深い人物であり、朝でも夜でも食前食後は祈りを欠かすことが無かった。田舎にいるのが大好きで、自分の領地の管理をしたり狩猟をするのを趣味にしていた。また穏健派ではあったが、汎スラヴ主義を奉じる国粋主義者だった。 1895年、ニコライは騎兵総監を務めることになり、以後10年間この職務にあった。騎兵総監の地位にあるあいだ、ニコライは将兵の訓練と騎兵学校の改革を行い、騎兵と騎馬をより効率よく供給・確保するよう努めて、成功をおさめることが出来た。ニコライ大公は日露戦争では司令官の地位を与えられなかったが、これには皇帝ニコライ2世の思惑があった。皇帝はもし皇族を司令官として敗北した場合にロシア帝室の威信が傷つけられるのを避けようとしたのと、国内情勢が不安な時に、忠誠心厚い将軍をそばに置いておきたいと考えたのだった。このため、ニコライ大公は戦場で采配を振る機会を逸した。1905年6月、陸軍と海軍の活動を調整する国家防衛会議(1908年7月に解散)議長に就任し、参謀本部の軍事省からの分離を実現した。 ニコライ大公は1905年のロシア第一革命では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、ロマノフ王朝の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世はセルゲイ・ヴィッテ伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。 1905年から第一次大戦開始まで、ニコライ大公は、親衛隊とサンクトペテルブルク軍管区の総司令官を務めていた。大公は低い出自の者でも分け隔てなく高い地位に取り立てたので、評判を高めた。敗北に終わった日露戦争の屈辱を、大公は自分の部下たちにしっかりと覚えておかせた。 1907年、ニコライ大公はモンテネグロ王ニコラ1世の娘アナスタシヤ・ニコラエヴナと結婚した。アナスタシヤはニコライ大公自身の弟ピョートル大公の妻ミリツァ・ニコラエヴナ大公妃の妹で、ロイヒテンベルク公爵と離婚したばかりだった。この結婚は幸福なものとなった。大公夫妻はどちらも非常に敬虔な正教徒であり、また二人とも神秘主義に傾倒していた。アナスタシヤは出身国モンテネグロの反トルコ感情の強い環境で育ったためか、極端なスラヴ民族主義者であり、このことは大公の汎スラヴ主義志向にますます拍車をかけた。大公夫妻には子供はいなかった。
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