路線短縮に伴う電車改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:15 UTC 版)
「下津井電鉄線」の記事における「路線短縮に伴う電車改造」の解説
1972年の路線短縮後、モハ110、クハ23(→モハ1001)、モハ103-クハ24、モハ102-サハ2-クハ22の7両が残され、他は全て廃車された。 実際に運用上必要な車両数は6両であったが、単行運転用として片運転台の制御車であるクハ23を両運転台の電動車に改造するのに時間がかかったことから、その間の暫定的な運用車両として両運転台の更新改造車であるモハ110も残された。 クハ23については、窓配置を変更して客用扉を両端に寄せ(窓配置が3D6D3→1D10D1に変化)、廃車となったモハ52から発生したとされる電装品を用いて電装するという大工事が自社下津井工場にて実施され、併せてワンマン化改造の上でモハ1001として1973年に竣工し、モハ110を長期休車から1977年には廃車へと追いやった。その後同車は早朝深夜や日中の単行運転用として長く重用されたが、1983年10月ごろから車内外への落書きを公認しそれを目玉にした落書き電車となり、「赤いクレパス号」の愛称が与えられて専用のヘッドマークがつけられたほか、テレビや雑誌などでも取り上げられて有名になった。また、1984年11月には定期検査の機会を捉えて車内の海側のロングシートのみ撤去し、そこに廃車となった自社所有観光バスの廃車時に発生した余剰品の座席を流用して、山側は既存のロングシート、海側は交換したクロスシートの座席配置のセミクロスシート車として廃止時まで使用された。廃止間際の頃には全国各地から訪れた観光客による落書きが車両内外の至る所に数多く書き込まれていたが、電装品を中心に相当老朽化が進んでおり交換用の部品も欠乏していたため、なるべくモハ103-クハ24の方を多く稼働させる工夫がなされていた。 モハ103-クハ24は朝夕の通勤通学時間帯や休日などの多客時、あるいはモハ1001の検査時などを中心に運用され、しばらくはツーマン仕様で使われていたが、1973年12月〜1974年1月にかけての定期検査の際にワンマン化改造が実施され、モハ1001同様に運転台寄り客用扉を移設、さらに乗務員扉も撤去されてd2D6D3から1D8D3(扉間窓のうち左から3枚目は幅の狭い1段サッシ窓)と変則的な窓配置となった。また前面も通風改善のため通風器を撤去し、前面窓のうち進行方向右側の窓を下端から1/3ほどの位置で分割した下段上昇式の二段窓に改造している。その後は車体修理の機会を捉えて、1985年6月にアイボリーホワイトを主体にスカーレットの細帯を巻いた当時の自社路線バスに近いカラーリングに変更されたが、1988年の瀬戸大橋完成直前に富士フイルムの広告電車となり、同社製フィルムのイメージカラーである緑を主体に白帯を巻いた塗装に変更の上、廃止時まで運用された。 モハ102-サハ2-クハ22は児島競艇開催時やイベント時などの多客輸送用とモハ103-クハ24の定期検査時の代走用として残されており、客用扉も手動のままで自動化されなかった。またワンマン化改造もされずツーマン仕様のままで路線短縮前の全盛期の姿を保っていたが、上記の通りモハ102は路線短縮前に片運化と貫通路設置、クハ22とサハ2は貫通路設置の改造を受けており、3両貫通編成を組んでいた。ただし運用時には車掌の乗務が必須であったため通常期は運用されず、下津井車庫で留置されていることが多かった。後述するメリーベルの導入後に、まず特に老朽化の進んでいたサハ2が廃車解体されてモハ102-クハ22の2両編成となり、多少の整備を施した上で予備車として残され、その後瀬戸大橋博'88の会期終了後の1990年には、残る2両も順次下津井工場でクハ22→モハ102の順に解体された。なお同車の電装品や機器類などは既存車の予備部品として廃止時まで保管されており、またモハ102の車体は解体までの間倉庫代用として使用されていた。
※この「路線短縮に伴う電車改造」の解説は、「下津井電鉄線」の解説の一部です。
「路線短縮に伴う電車改造」を含む「下津井電鉄線」の記事については、「下津井電鉄線」の概要を参照ください。
- 路線短縮に伴う電車改造のページへのリンク