足掛四年の英国留学(1912-1915)
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「二階堂トクヨ」の記事における「足掛四年の英国留学(1912-1915)」の解説
1912年(大正元年)10月1日、トクヨは体操研究のため文部省から2年間のイギリス留学を命じられた。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた。11月20日、曇り空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、高村光太郎ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った。日本人女性の体育留学生は、井口阿くり以来2人目であった。 1913年(大正13年)1月15日、ロイヤルアルバートドック(英語版)に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(Kingsfield Physical Training College、KPTC、現・グリニッジ大学(英語版))の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った。学校側は「アシスタント・プロフェッサーが留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった。これに対して「スウェーデン体操を教えていた」とトクヨはすまして答えたが、その内容を話すと「スウェーデン式教育体操の一部をやっているんですね」と教師から言われ、自分が教えていたものはスウェーデン体操の一部にすぎないことを知った。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た。トクヨが披露したのは羅漢遊び(各人が違った身振りをする)、篠田の森の狐つり(わらべ歌)、鼻々遊び(手遊び歌)、はげ頭(言葉遊び)などであった。 KPTCの授業は理論と実科に分かれ、理論では生理学・解剖学・衛生学など、実科では教育体操・医療体操・舞踊・競技などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった。トクヨが最も影響を受けたのは、校長のマルチナ・バーグマン=オスターバーグであった。学校の長期休暇中は、ロンドン市内の女子体操学校を参観し、チェシャー州オルトリンガム(英語版)の夏季学校での水泳練習、ロンドンの舞踊塾でのダンス練習に励んだ。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し学年1位の成績を得た。 KPTCで1年3か月学んだ後、トクヨはイギリス国内の体操専門学校を渡り歩いた。当初の留学予定では、イギリス巡歴の後、ヨーロッパ各国を巡ってスウェーデンで半年学び、帰路アメリカに立ち寄ることになっていた。しかしこの頃、第一次世界大戦が勃発し、イギリスでもドイツ軍による空爆が行われるような緊張状態であったため、トクヨは各国巡回を諦めイギリスにとどまることにした。ところが日本から急きょ帰国せよとの電報が届いたため、やむなく1915年(大正4年)3月14日にイギリスを発ち、ドイツ軍の潜水艦攻撃に怯えながら行きと同じ航路を取って、4月4日に日本へ戻った。 留学前は、イギリスに行ってもそう変わることはなかろうと踏んでいたが、実際には体操教師の博識多芸さに驚かされ、女性が体操教師として活躍していることに感銘を受け、愛国心を喚起させる結果となった。この経験を胸に、自らの体を女子体育と国に捧げるという覚悟を決め、その意志は終生揺らぐことはなかった。トクヨは留学生活について『足掛四年』(1917年)に書き残し、2人の弟・清寿と真寿はトクヨ13回忌記念に、留学中に送られてきた手紙をまとめた『ロンドン通信』(1953年)を発行した。
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