議員としての活動
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1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法や水産業協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風、アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至る。 一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。『三木おろし』では大平派の参謀として、福田派の園田直、田中派の二階堂進らと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。三木武夫の退陣後の『大福密約』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。 一方では、盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線・久慈線・盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル(仙岩道路)の建設、国民休暇村の雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、東北自動車道、三陸縦貫自動車道の整備に影響力を発揮した。
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議員としての活動
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長老派教会の信者として韓国国会内で朝餐祈祷会を始めるなど、キリスト教議員としての活躍が目立つ。日韓キリスト教議員連盟の提唱者・韓国側設立者であり、現在も韓国側代表として、小泉首相(当時)の靖国神社参拝への抗議などの活動を行っている。
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