議員と評議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)
「トマス・ハッチンソン」の記事における「議員と評議員」の解説
1737年、ボストン市の市政委員に選ばれ、同年後半にはマサチューセッツ植民地議会議員にも選ばれて、政治の世界に入った。ハッチンソンは植民地が信用証券(紙幣という形態で)を発行する慣習に反対した。そのインフレによる価値の低下が経済に混乱を来していた。その姿勢は植民地の人民党の間では不評であり、ハッチンソンは1739年の選挙で落選した。マサチューセッツとニューハンプシャーの境界線に関してイギリス国王ジョージ2世がニューハンプシャーにかなり有利な判断を下したとき、それに影響される地主の代理人として請願を行うためにイングランドに派遣された。ハッチンソンの任務はうまく行かなかったが、ハーバードに新しい礼拝堂、ホールデン礼拝堂を立てる資金(遺産贈与)を持ち帰ることができ、それで建てられた礼拝堂は現在も残っている。 1742年、ハッチンソンは再度植民地議会議員に選出され、それを1749年まで務め、1746年から1749年には議長を務めた。通貨の改革を訴え続けたことが人民派を大いに悩ませたので、暴徒の手からボストンとミルトンにあるハッチンソンの資産を守る必要性が検討された。イギリス政府が1745年にルイブール要塞を攻めた時に植民地の費用を出すよう説得されると、ハッチンソンはその大きな出費(金と銀で約18万ポンド)を使って植民地の紙幣を回収するアイディアを思いついた。1749年の議会でかなりの反対があったものの、このアイディアを実行する法案を通すことができた。総督評議会の合意も得られ、ウィリアム・シャーリー総督が署名した。紙幣と正金の交換によって財政的な影響を及ぼさないことが分かり、法案の反対者が驚きながらも喜んだ時に、ハッチンソンの人気が大きくなった。 この成功にも拘わらず、ハッチンソンは1749年の議員選挙で落選した。しかし、その後直ぐに総督評議員に指名された。1749年、当時はマサチューセッツに属していたメイン地区に住むインディアンとの条約を手配する委員会を主宰した。またコネチカット植民地やロードアイランド植民地との境界論争を決着させる委員会の委員も務めた。1752年、検認裁判所判事と一般訴訟裁判所判事に指名された。1754年にフレンチ・インディアン戦争が起きると、オルバニー会議の代議員に選ばれた。この会議でハッチンソンは議論を進める役回りとなり、ベンジャミン・フランクリンと共に植民地の統合のための案を作成した。イギリス領植民地が当時ばらばらに分かれていたことで危険になっていると、フランクリンと合意し、しばしば互いに争う植民地を首尾一貫した統一体にする決定的な動きを採らねばならないという意見で一致した。最も重要なのはハッチンソンが起草した報告書であり、「イギリスが大陸に持つ幾つかの植民地を統合することで、その評議会、財力、軍事力が共通の敵に対してうまく適応される」という共同体を設立することを奨励しなければならないと結論付けていた。 1754年、ハッチンソンの妻が極めて突然死んだ。その後は仕事に没頭することになった。その仕事は政治的な性質のものだけではなかった。ノバスコシアの故郷を追われたアカディア人避難民を支援した人道的行為もあった。ただしこれはローマ・カトリック教徒を支持するものであり、プロテスタントのマサチューセッツで支持を得られるものではなかった。戦争に関わる軍人の必要性も感じており、軍人のベテランのいる家庭で困窮しているものを助けることも多かった。
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