三光汽船に入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:41 UTC 版)
1943年、姫路高校の先輩である河本敏夫に乞われて、三光汽船に取締役として入社。三光汽船の番頭格として河本を補佐し、財務担当役員として活躍した。 1949年、河本が第24回衆議院議員総選挙に兵庫県第4区から出馬し当選。以後、河本が衆議院議員としての活動が多忙をきわめる中で、岡庭が実務面全般を取り仕切る事となる。その後1960年に常務・1962年に専務となり、1963年の海運集約に参加しないことで政府の統制を受けない自由度の高さからタンカーなどの大型船の拡充に力を入れた。更に1971年からは株式の時価発行や第三者割当増資を繰り返して多額の資金調達を行い、大々的に船腹を増強・同社を世界でも有数の海運会社へと成長させた。一方で社業の傍ら大阪産業大学教授を務め、海運経営や企業財務を講じている。 1974年には代表取締役副会長に昇進、さらに1981年には会長となって経営手腕を発揮したが、世界的な海運不況の煽りをうけ、三光汽船の経営は悪化し、1982年3月期決算は最終利益が黒字になったものの、翌年から3期連続の赤字となり1985年初頭には同社の株価は100円を割るようになる。 1985年8月13日、三光汽船は5200億円の負債を抱え会社更生法の適用を申請し倒産。翌年には会長を退任し、その後は海運史の著述に専念する。 2004年2月20日、脳腫瘍の為、91歳で死去。
※この「三光汽船に入社」の解説は、「岡庭博」の解説の一部です。
「三光汽船に入社」を含む「岡庭博」の記事については、「岡庭博」の概要を参照ください。
- 三光汽船に入社のページへのリンク