三党合同
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88年の国会議員選挙で民正党が国会過半数を失ったことに危機感を抱いた盧泰愚大統領は1990年1月22日、民主党(金泳三総裁)及び共和党(金鍾泌総裁)と合同して「民主自由党」(民自党)を結成することを宣言、2月に合同大会を開催して民自党を正式に発足させた。民自党発足で、絶対的少数政党へと転落した平民党は、3党合同に反対した民主党議員や無所属議員が結成した「民主党」との合同を模索、在野勢力との合同(平民党→新民主連合党)を経て、1991年に新たな「民主党」(共同代表:金大中・李基澤。中央選挙管理委員会に届け出た法的代表者は金大中のみ)を発足させた。この結果、政党体制の構図は、一盧三金の出身地域に依拠した多党制から「反湖南VS湖南」による両党制へと変化することになった。 表9:民自党と民主党の地盤地域政党地盤地域備考民主自由党 慶尚道(PK+TK)・忠清道 民主正義党と統一民主党、新民主共和党が合同して結成 民主党 全羅道+PK勢力の一部 新民主連合党と(ミニ)民主党が統合して結成 表10:民自党発足前後の党派別議席数党派1989年12月19日現在1990年3月16日現在備考議席率議席率民主正義党 129 43.1 統一民主党 59 19.7 新民主共和党 35 11.7 民主自由党 217 73.1 1月22日、三党合同を宣言 2月6日、合党大会 平和民主党 71 23.4 70 23.6 非交渉団体 6 2.0 10 3.4 299297出典:교섭단체 구성 및 변천 추이(交渉団体構成及び変遷推移)『대한민국국회 60년사』633頁 翌1992年3月の総選挙では、経済政策などに対する不満から民自党が議席数を大幅に減らし過半数を割り込んだ(選挙後、無所属當選者を入党させて過半数を確保)。反対に民主党や統一国民党(現代グループ総帥の鄭周永が、同年1月に結成)が躍進した。しかし、同年12月に行われた大統領選挙では、嶺南地域の固い地盤に支えられた金泳三(民自党)が金大中(民主党)に大差をつけて当選することができた。一方、二金の間で埋没し、敗北した鄭周永は選挙後に政界引退を表明、彼が率いていた国民党は五月雨式に離党者が続出し、群小政党に転落した。
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