大統領になるまで
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「ジャック・シラク」の記事における「大統領になるまで」の解説
1932年11月29日にパリの5区内にある医院で誕生した。父親は銀行員で、後に飛行機会社の役員になった。そして中学校から高校時代にかけて4校に在籍した。ヴェルサイユのリセ・オッシュに1年、それからパリ8区の私立アトメール校、パリ17区のリセ・カルノ、パリ5区のリセ・ルイ=ル=グランなどを経てバカロレアを取得し、1954年にパリ政治学院を卒業。在学中にハーバード大学サマースクールに留学経験がある。1950年代はフランス共産党員であり、ストックホルム・アピールに署名するなどしていた。1956年に軍隊に召集され、将校としてアルジェリア戦争に従軍、負傷した。1959年、フランス国立行政学院を卒業後国家公務員となり、1962年まで会計検査官を務めた。のち、シャルル・ド・ゴールのもとで首相を務めるジョルジュ・ポンピドゥーの官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得るなど、急速に出世した。この頃から、旺盛な行動力により「ブルドーザー」の異名を得る。ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに、のちに首相となるエドアール・バラデュールがおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。 1967年にポンピドゥーの勧めで国民議会議員選挙に出馬して当選して社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任し、ポンピドゥーのもとで1972年に農相、1974年に内務大臣と、重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、ヴァレリー・ジスカール・デスタンの下で1974年5月から1976年まで首相を経験した。1976年にドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、共和国連合を創設し、総裁となる。1986年に再び首相に返り咲く。1977年から1995年まで長くパリ市長を務めた。この間、1981年と1988年に大統領選挙に出馬したが、いずれも社会党のフランソワ・ミッテランに敗れている。
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大統領になるまで
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慶尚南道の巨済島(現在の巨済市)の出身。ソウル大学哲学科を卒業、1952年に張沢相国務総理(当時)の秘書官に就いたのを経て、1954年第3代国会議員選挙で自由党候補として巨済にて立候補して、当時の最年少国会議員として当選、政界入りする。後に、自分のもとを訪れた日本の大学生達に「反日の話を相当しないと、当選できないような時代だった」と述懐した事がある[要出典]。 議員となって以後、長らくは野党の立場で活動し朴正煕政権~全斗煥政権期の軍事政権時代には、1969年に暴漢に硝酸を浴びせられたり(金泳三硝酸テロ事件(朝鮮語版)。中央情報部による犯行と推定されている)、『ニューヨーク・タイムズ』記者とのインタビュー記事等をめぐり国会議員除名(金泳三総裁議員職除名波動)となったり(1979年)、自宅軟禁を受けたりといった弾圧を受けたりもした。 1970年代から1980年代にかけて、金大中と伴に代表的な野党政治家・民主化運動家の一人であった。1985年3月6日に、全斗煥大統領により政治活動を解禁される。 1987年に全斗煥の退任に伴って行われた第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同(朝鮮語版)に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。
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