議会閉鎖と憲法破棄
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「アルベルト・フジモリ」の記事における「議会閉鎖と憲法破棄」の解説
1990年、フジモリは大統領選挙で勝利したが、共和国議会での彼の政党「変革90(スペイン語版)」の議席数は3番手に留まった。これはアメリカ革命人民同盟と作家マリオ・バルガス=リョサの設立した民主戦線後に続く勢力ではあったものの、下院180議席中32議席、上院で62議席中14議席を得たにすぎなかった。 「:es:Periodo parlamentario 1990-1992 del Congreso de la República del Perú」を参照 このため、政府と議会の関係は政権の始まりからの緊張と対立を孕んだものとなった。行政上の議会の監督、1979年憲法で制定された民主主義の原則、それらはフジモリ大統領の直接的なポピュリストの見地から厄介な存在だった。議会は政府に立法権を付与したにもかかわらず、その後の法令の改正により大統領を苛立たせ、大統領は議会が承認した法律を順守した。 フジモリは議会と伝統的政治とを通じた「大衆(ポピュラリティー)の危機」を利用して、これが国家の問題、特に危機管理に対する障害の側面を強調した。 議会閉鎖と権力の絶対的なコントロールを計画し始めた。 憲法秩序の破棄は、最終的に1992年4月5日の夜、「自作クーデター(auto-golpe(self-coup))」として知られるようになった。 フジモリは、共和国議会を解散し、司法権の活動を中止するように国家にメッセージを出した。各都市に配置された軍は、主要な民主主義機関の本部と政治的反対派の住宅を取り囲み、メディアに襲撃をかけ、ジャーナリストのグスタボ・ゴリッティ(スペイン語版)らを誘拐した。 自作クーデターは市民の過半数によって支持され、と同時にさらに8年間続いていくフジモリ政府の民主的な正当性に疑問を投げかけるものとなった。 憲法がその修正のための仕組みを提供しているのは事実だが、(...)憲法は現在の任務においてはほぼその役割を終え、我々はペルー再建のために必要な法的手段のみを有することとなるだろう。 (...) ペルー離陸を可能とするすべての深い変化をつくりだす機関または仕組みとはなにか?間違いなく、議会も司法も現在の変化を代表するものではなく、むしろ変革と進歩を阻止している。共和国大統領として、私はこれらの歪みを直接証明し、この国家再生プロセスを軽減するための例外的態度をとる責任を感じる。 私は以下の重大な措置を講じることを決めた。 1.立法権の新しい組織構造の承認まで、共和国議会を一時的に解散する。これは国民投票により承認される。 2.司法支部、国家治安審議会、憲法保証裁判所、公務員の誠実で効率的な管理の再編。 3.国家資源の不正使用者に対する大幅な制裁強化につながる十分かつ時宜を得た行政監督を達成するための会計監査官事務の再編。 1992年4月5日、アルベルトフジモリフジモリ 1992年11月13日、ハイメ・サリナス・セド少将(外部リンク)はペルー軍兵士と決起し、「自作クーデター」後に崩壊した民主的秩序を再確立しようと試みた。軍の襲撃を受けたフジモリはすぐに日本大使館に駆け込み、彼らを暗殺を試みたとして非難した。 まもなく、少将らは投獄された。 その後、フジモリは事実上の政権運営を開始した。この政府は、独裁的だとして指摘された「緊急国家復興政府」として洗礼を受けた。内外からの圧力(主に米州機構)のため、民主制議会のための迅速な選挙が招集された。1993年の憲法国民投票(Referéndum constitucional de Perú de 1993)で52.24%を獲得し勝利した結果、新憲法が公布され、国家機能が変わり、大統領の権限強化がなされ、 検察の力が低下したことに加えて、議会の権限が切断されることとなった。
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