調査と習作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 17:10 UTC 版)
1816年、難破事件の報告書が一般に公開されるとジェリコーはこれに熱中し、この事件を描くことで、画家としての評価を確立する機会にしようと思いついた。制作を決めると、彼は絵に取り掛かる前に幅広い調査を開始した。1818年初め、ジェリコーは生存者のアンリ・サヴィニーとアレクサンドル・コルレアールに会った。2人は自分たちの体験を思いを込めて語り、最終的に絵のトーンを決定づけた。芸術歴史家のジョルジュ・アントワーヌ・ボリアによると、「ジェリコーはボージョン病院の向かいにアトリエを確保した。そしてここで、陰鬱な制作に没入しはじめた。。 鍵をかけたドアの後ろで、ジェリコーは制作に没頭した。何物も彼を押しとどめることはできなかった。彼は怖がられたり避けられたりした」のだという。 初めごろの旅で、ジェリコーは狂気と疫病の危機にさらされた。また歴史的にも正確かつ現実的であろうとするあまり、メデューズ号について調べる間に死体の死後硬直の様子に取りつかれたようになった。死者の肌の色をできうる限り本物に忠実にとらえるため、ボージョン病院のモルグに赴いて死体をスケッチし、瀕死の入院患者の顔を観察し、切断された手足を自分のアトリエに持ち込んで腐敗の様子を観察し 、精神病院から借り受けた生首を2週間かけてデッサンし、アトリエの天井裏に保管した。 コルレアール、サヴィニー、さらにもう1人の生存者、大工のラヴィレットと共に、詳細で正確な筏のスケールモデルを作り、厚板の間の隙間まで再現した。そして、それをもとに完成作品に取り組んだのである。ジェリコーはモデルのポーズを決め、閲覧請求の用紙を揃え、関連のある他の画家作品を模写し、ル・アーヴルに出かけて空と海をスケッチした。熱があるにもかかわらず、何度も海岸に出かけて岸壁にぶつかる嵐を観察した。英国の画家を訪ねるためにイギリス海峡を渡った際にも、悪天候を観察する機会とした。 ジェリコーは数多くの予備スケッチを描き、事件のどの瞬間をとらえて完成作品とするか何度も試行錯誤した。絵の創案は困難で時間も掛かり、ドラマの本質を最も効果的に捕らえる瞬間を選びぬくために、ジェリコーは非常に苦心した。 彼が採用を検討した場面には、漂流2日目に起きた将校に対する反乱、そのわずか数日後に起きたカニバリズム、そして救出の瞬間があった。救助船アルゴス号が近づいてくる姿を、水平線に見つけた瞬間について生存者の1人が語ったとき、ジェリコーは即座に最終決定を下した。完成作品では、アルゴス号は右上部に見えている。生存者たちは船に合図を送ろうとした。しかしアルゴス号は、通り過ぎてしまったのである。生存者の乗組員の言葉によれば、「熱狂的歓喜から、深い落胆と悲嘆の底にたたき落とされた」のである。 事件の詳細を熟知している者には、この絵の場面は、全ての望みが失われたかに思われた瞬間を切り取ったもので、乗組員達が自棄状態になった様を余すところなくとらえた物だと理解された。アルゴス号は、2時間後に再び現れて、生存者を救いだしたのである。死体の数も含め、実際の救出の段階における記録よりも多く、絵には人物像が描かれていると、作家のルパート・クリステンセンは指摘する。報告書では、陽がさんさんと照る波の穏やかな朝だったとされるが、ジェリコーは、次第に激しくなる嵐と暗くうねる波を描いて、陰鬱な気分を強調した。
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