調査と発掘の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:26 UTC 版)
「浅間山古墳 (栄町)」の記事における「調査と発掘の経緯」の解説
浅間山古墳はかねてから龍角寺古墳群最大の前方後円墳として知られていた。龍角寺古墳群について研究され始めた当時、浅間山古墳は古墳群の中で最初に造営された古墳と考えられていた。浅間山古墳について最初に本格的な調査が行われたのは、1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)にかけて、千葉県教育庁文化課によって龍角寺古墳群の墳丘の測量調査が行われた際のことであった。この時の調査では現存の墳丘長が66メートルある、印旛沼北岸では最大級の前方後円墳であることが判明した。 千葉県史編纂の資料収集の一環として、千葉県史料研究財団は1994年(平成6年)から、当面の発掘調査や史跡整備の対象になっていない千葉県内の古墳の中で、墳丘長60メートルを越える、古墳が築造された地域や時代を代表するような古墳を5ヶ所選定し、測量調査を行うことになった。浅間山古墳は房総風土記の丘の敷地外となったために整備されることもなく、荒れ果てていたが、調査対象古墳の一つに選定され、初年度である1994年(平成6年)11月から12月にかけて測量調査と1995年(平成7年)1月には内部レーダー調査が行われた。 その後、やはり千葉県史編纂の資料収集の一環として、千葉県史料研究財団は古代史関連では3ヵ所の重要遺跡の発掘を計画した。その中でまず龍角寺古墳群にある全国最大級の方墳である岩屋古墳の発掘が検討されたが、岩屋古墳は発掘が困難であったため、同じ龍角寺古墳群に属する浅間山古墳を発掘することとなった。 浅間山古墳の発掘は、まず1996年(平成8年)7月下旬から9月上旬にかけて墳丘や周溝部分の調査を行い、その中で埋葬施設の確認がなされた。その後1996年(平成8年)9月下旬から翌1997年(平成9年)2月後半にかけて、埋葬施設の調査が行われた。発掘調査の結果、浅間山古墳は7世紀前半、龍角寺古墳群の中でも最後の頃に造営された前方後円墳であることが確定した。
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