詳細補足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:32 UTC 版)
なお、この作詩の背景は、近代化によって去り往く徳川の世を偲ぶ日本の風情に満ち満ちている。 戊辰戦争の徳川の象徴は、鳥羽・伏見の戦いの後に、奠都で雅な皇城に変えた江戸城の無血開城(勝海舟/西郷隆盛)と徳川寛永寺上野戦争(輪王寺及び彰義隊)等がある。戦線は北上して晩翠の故郷につながっている。 晩翠は、音楽取調掛跡に建つ東京大学法文館に居て、廃藩置県及び廃城令等により改廃した松平前田藩邸跡で詩を書いており、かつての音楽取調掛(1879-1887)と法文館とも対照化させて詩を文学的に構想をした。 作詩の背後では、晩翠は、赤門松平前田藩邸跡と一橋門護持院跡等を視野に予め擬えて詩を構想したと考えられおり、また、設定の対比や多重構造化されている。依頼元の東京音楽学校の母体が音楽取調掛であり赤門松平前田藩邸跡にあった。音楽取調掛跡に建つ東京大学の母体は、徳川幕府の蕃書調所(1856-1863)及び開成所(1863-1868)であり一橋門護持院跡にある。 音楽取調掛は西洋音楽を、蕃書調所及び開成所は西洋書物を国内に取り込む端緒であり、文化的な開国が進んでいた。 音楽取調掛の松平前田藩邸跡と同地に松平富山藩邸跡があり、向かいには御三家水戸藩邸跡があり、晩翠の視野に基礎的な詩の背後設定は揃う。 一橋門蕃書調所(現在の神田一ツ橋2の共立女子学園の西側校舎辺り)の向かいは、神保伯耆守長興邸(神田神保町2丁目21付近(当時の一ツ橋通町7付近))が建っており神保氏に繋がる。同様に向かいは八重の新島襄(1843-1890)が育った安中藩板倉江戸屋敷(現在の神田錦町3の東京大学学士会館(当時の東京大学跡))が建っており同屋敷も神保氏で、晩翠の視野に象徴的な詩の背後設定も含めて全て揃って整う。 水戸徳川家頼房の男系子孫にて、15代将軍徳川慶喜も会津藩主松平容保(慶喜と又従弟)とあって、この詩では慶喜と容保の位置づけは対照的である。また、ここで一橋門は徳川宗家を表すが必ずしも慶喜のみを指すものではない。 水戸徳川家頼房の女系子孫には、前田家が位置づいており、富山藩主前田利同まで繋がっている。 徳川家康の女系子孫の側面では、慶喜と容保は共通であり、これに平行して前田家も同じである。 徳川家康の直系子孫の宗家には、紀伊徳川家吉宗の御三卿、一橋家があり同田安家が継いでいる。 背後基盤において、神保氏は過去へ鎌倉に遡る関わりで重要な働きをして詩に練り込まれている。鎌倉からの畠山足利家の重臣であった越中の神保国宗・神保長誠は、室町三管領畠山政長と共に応仁の大乱・明応の政変からの戦国時代への切っ掛けを創った者である。子孫は、富山城を築城したとされる神保長職、神保春茂子孫に板倉支藩の女系子孫に位置づく安中藩主重同・勝清・勝暁・勝意・勝矩等がおり、また勝矩系は奥羽越列藩同盟の福島藩主として東北戦争を戦ったこと、同春茂子孫に当る神保山城守相徳(茂宣)は彰義隊と行動を共にしたこと、神保小路の神保長治及び伯耆守長興の存在等、個性的な詩の背後設定は史実に支えられている。 さらに、新選組の原田左之助が彰義隊に関わり銃槍にて神保伯耆守邸で絶命との永倉新八の証言があり、この有名なエピソードでも裏付けされる。 そして、佐々成政の姫は神保(畠山?)氏春に嫁ぎ長利をもうけた。同長利は後に兼続・景勝に仕え、さらに山形最上家、鳥居家を経て保科正之に仕え、その後会津藩に遷って子孫は代々仕える。会津戦争では悲運の最期を遂げる神保内蔵助・神保修理のことは良く知られている。 そして、織田信長の姉は先に同氏春に嫁ぎ氏長をもうけている。神保氏長家は幕末に神保数馬武清(亀三郎)邸を裏二番町に構えるが、後に偶然にも滝廉太郎も同町上二番町2及び22に住んでいた。 東京大学は、一橋門を離れて本郷に遷り、入れ替わって音楽取調掛は上野寛永寺の戦線跡に遷って(1885)共に北上する。その後、晩翠は詩に謳う。 因みに、蕃書調所の前身に、蛮書和解御用(1811-1856)は宇宙に繋がる天文方(1685-1870)の外局として開かれている。
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