悲運の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 08:22 UTC 版)
総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、長輝が将軍に恭順を進言したことにはじまると会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人との烙印までも押されてしまった長輝は和田倉上屋敷に幽閉される。 会津藩内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長輝の窮地を救おうと親交のあった旧幕臣の勝海舟は、身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志らの陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」が辞世と伝えられている。 墓は東京都港区白金台の興禅寺。諡は遺徳院殿仁道義了居士。
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