悲運の交響曲
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「交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)」の記事における「悲運の交響曲」の解説
本作は完成後、数奇な運命をたどることになる。1936年1月から2月にかけてオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソビエト共産党機関紙『プラウダ』で批判された(プラウダ批判)。当時ショスタコーヴィチの置かれた状況は決して安泰ではなく、スターリンの粛清下、近親者や友人たちが相次いで投獄され、彼自身トゥハチェフスキー事件に連座して当局の事情聴取を受けるほどであった。この頃のショスタコーヴィチは「たとえ両腕を失おうとも、歯でペンを銜えてでも作曲を続ける」と悲壮な覚悟を述べていた。 交響曲第4番は同年12月11日にシュティードリー指揮、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団で初演を行うことも決まっていたが、シュティードリーによれば、最終リハーサルでは第3楽章に至ってオーケストラが楽曲に対して表立って抵抗を始め、意図的に手を抜いたという。楽団員が騒然とした集会を開いた後、ショスタコーヴィチは自身で楽譜を回収して出て行っとロディオン・シチェドリンに語っている。また音楽学者のイサーク・グリークマンによれば、当時音楽界や過激派の間にはショスタコーヴィチが過去の批判を無視した形式主義のとんでもない交響曲を書いたという噂が広まっており、ある日リハーサルに作曲家同盟の書記が共産党組織の本部に属する役人風の男と共に現れ、その日のリハーサル後にフィルハーモニーの責任者の部屋に呼び出されたショスタコーヴィチは、20分ほどして戻ってくると意気消沈してずっと黙っていたが、やがて無表情に「交響曲は演奏されない。執拗な忠告により引っ込められた」と語り、作曲者本人によって撤回された扱いになったのだという。その後、1961年12月30日に初演が行われるまでの25年間、本作が日の目を見ることはなかった。 本作の初演を見送った後に交響曲第5番を作曲し、その名誉は回復された。 しかしショスタコーヴィチは本作を、「失敗作でオーケストラで演奏されなかったが、私自身この曲のいくつかの部分は好きだ」と評しているように放棄せず、チャンスがあれば公演を行うつもりであった。1960年代には、すでに総譜は紛失していたが、モスクワ・フィルハーモニー協会の芸術監督グリンベルクとモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者キリル・コンドラシンらがパート譜をもとに復元し、初演の運びとなった。なお、作曲者自身は初演を親友のムラヴィンスキーに頼んだが謝絶され、結局コンドラシンによって初演の運びとなり、これ以後コンドラシンとショスタコーヴィチの交流が生まれた。 以上のような経緯から、本作は長らく正当な評価が下されず、巨匠の隠れた名作とされていた。ショスタコーヴィチの生前に録音された演奏はわずかで、そのほとんどがソ連または東ドイツの指揮者とオーケストラによるものだった。しかし近年になってその真価が再評価され、演奏・録音の機会も多くなってきている。 なお、完成当時、指揮活動でレニングラードを訪れていたオットー・クレンペラーも、師マーラーの影響の強いこの作品に大いに惹かれ、次に予定していた南米でのコンサートに取り上げることを作曲者に約束していたが、上記の理由で立ち消えとなった。 最晩年にショスタコーヴィチは「プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した。代わりに交響曲第4番を書いた。若さと体力がプレッシャーに勝ったのだ」と証言している。
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