行政、官制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 05:43 UTC 版)
宮廷に参議院などの王の施政を補佐する機関は無く、王は家臣との合議で政務を執った。病弱で政務を執るに支障をきたしている、あるいは国政に関心を持たない王は家臣に政務を一任していたが、精力的な王は国事の全権を掌握していた。当初は王族が要職に就いて国王を補佐したが、スルタン・マンスールの治世に王族は要職から排除された。 王に次ぐ地位にある副王はパドゥカ・ラジャガと呼ばれたが、その地位に就いたのはラジャ・プテ一人であり、実質的に国王に次ぐ立場にあった官職はブンダハラ(宰相)であった。官職はブンダハラ以外に、プンフル・ブンダハリ(財務長官と王室の家令を兼任)、ラクサマナ(海軍総司令官)、トゥムンゴン(警察長官)などがあり、これらの要職は王族あるいは建国に協力した海上民の子孫である貴族で占められた。彼ら貴族はムントゥリ(あるいはマンダリ)と呼ばれ、マレー半島南海岸の領地の経営、マラッカ周辺の果樹園とマラッカ内にそれぞれ割り当てられた区域から徴収した税を収入としていた。ブンダハラ、プンフル・ブンダハリは終身かつ世襲の職であり、特定の一族(ブンダハラはビンタン島のリアウ族出身の一家)から選ばれた。ブンダハラはスリ・マハラジャの治世には既に設置されていたと考えられており、彼らはムアルを領地とし、歴代の国王はブンダハラ家の娘と結婚するのが常であった。ブンダハラの中で有名な人物として、アユタヤの攻撃を退けたトゥン・ペラク、王朝末期に活躍し国王と外国商人の双方から厚遇されたスリ・マハラジャが挙げられる。 マラッカの戦争においては戦争奴隷や外国人傭兵以外に、マラッカ外に居住するウルバランという武士や騎士に例えられる身分の者たちも前線で戦った。彼らの中からウルバラン・ブサールという長が選出され、15世紀半ばにウルバラン・ブサールを補佐する役職としてラクサマナが創設され、ハン・トゥアー(en:Hang Tuah)が初代のラクサマナに任命された。その後ラクサマナが実質的なウルバランの指導者となり、ウルバラン・ブサールは実権を持たない名誉職となった。ラクサマナは海戦以外においても権限を持ち、初代ラクサマナのハン・トゥアーは陸戦においても武功を立てたことが伝わる。このようにラクサマナが強大な権限を持っていたのは、マラッカが海上国家と交易拠点の2つの役割を兼ね備えていたため、海軍の重要性が極めて高かったためだと言われている。 マラッカの開発にあたっては海上民が動員され、彼らに課せられる労役は部族の力と王国の支配下に入った時期によって異なった。リアウ族を中心とする有力部族は戦士として王に奉仕し、その中の特定の一族は高位の官職に就いた。部族の地位が下がるにしたがって労務は些細なものとなり、最下位の部族には王家が飼う犬の世話が課せられた。 スマトラ島東岸の領地、イルカン、ルパン、サンポカン、トゥンカルなどの港湾都市の支配については、マラッカから派遣された貴族が本来それらの都市を支配していた王に代わって政務を司っていたと思われる。サンポカンを除いた都市の住民はオラン・スラットであり、彼らは主に漁業と海賊行為で生計を立てていた>。それぞれの都市はマラッカに対して貢納の義務は課せられなかったが、代わりに戦時に兵力を提供する義務があった。 なお、彼らマラッカの官吏には月ごとに定額の給与が支給されておらず、賄賂と汚職がはびこる一因にもなった。
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