落語界入りと名跡襲名とは? わかりやすく解説

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落語界入りと名跡襲名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:04 UTC 版)

桂春団治 (2代目)」の記事における「落語界入りと名跡襲名」の解説

落語家になった経緯にはふたつの説がある。ひとつは彼のいた一座によく客演し懇意になっていた初代春團治門下我團治(のちの2代目三遊亭百生)に、彼が「本当落語家なりたかった」と心境うちあけ結果初代春團治の紹介受けたというもの。もうひとつ大阪・新世界劇場での出演見ていた初代春團治が才能に目をつけ、直接スカウトしたというものである1920年入門前座名は圓一字取り桂春蝶初代。のちの代と異なり、「しゅんちょうではなく「はるちょう」と読む)。1921年6月には、福々しい容貌から師・初代春團治によって桂福團治改名される(初代)。この時すでに笑福亭福團治がいたため、桂福團治所属する吉本興行部における大看板4代目笑福亭松鶴抗議しているが、初代春團治はそれを突っぱね、そのまま名乗らせた。 1934年11月初代春團治の死後間もなく、「人気もあるし、先代に一番芸風似ている」という吉本せい薦めにより、2代目名跡襲名した襲名前後して妻の春枝産後に健康を害して死去。まもなく、寄席お茶子をしていた女性(糸)と再婚する。しかしその糸も、出産後抜糸から高熱発して1939年病没した。 襲名際し初代吉本に対して残した多額借金相続したとされるが、夫人の寿栄は、のちにこの伝説を訂正している。日中戦争影響寄席興行減ってきた1939年 - 1940年頃2代目吉本興行部の後身吉本興業に「師匠そうしたように、全国巡業して回りたい」と申し出たところ、経営する寄席での出演減少することをよしとしない吉本が、「期限切ってならともかく、巡業中心で、その合間寄席に出るというのは専属契約解除等しい」と認めず、そこではじめ初代借金持ち出し巡業阻止はかったものだという。 この吉本との確執裁判沙汰となり、2代目長らく京阪神東京名古屋静岡など大都市圏寄席劇場に「桂春團治」の名で出演することができなくなった2代目漫才師浪曲師奇術師などと一座組み戦後にかけて地方巡業して自主興行おこなった手塚治虫漫画家としてデビューする前の1945年頃2代目地方での自主興行を行う際のポスター画を提供したポスター宝塚市立手塚治虫記念館展示されている。親交重ねるうち、2代目手塚漫画家志望という進路案じ落語家になるよう勧めたという。手塚著書では、当時近所住んでいてポスター制作することになり、それを届けた際に「手塚さん、ええ声してなはるやないか。よう通るし、スジがええ」「噺家になって充分使える声や」と誘われたという記述になっている1946年九州巡業の際には、実子の一(はじめ)が荷物持ち雑用係として同行博多急病発した漫才師代役として舞台上がり聞き覚えの「寄合酒」を演じる。この経験により一は落語興味抱き、翌1947年3月2代目弟子入りし桂小春名乗ることになる。 私生活では1944年2月に、広島市料理屋小松」の娘だった河本寿栄と3度目の結婚をする。寿栄の父は素人芝居結成して公演おこないその際2代目招いて交流があった。

※この「落語界入りと名跡襲名」の解説は、「桂春団治 (2代目)」の解説の一部です。
「落語界入りと名跡襲名」を含む「桂春団治 (2代目)」の記事については、「桂春団治 (2代目)」の概要を参照ください。

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