落語界入りと名跡襲名
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「桂春団治 (2代目)」の記事における「落語界入りと名跡襲名」の解説
圓蝶が落語家になった経緯にはふたつの説がある。ひとつは彼のいた一座によく客演し、懇意になっていた初代春團治門下の桂我團治(のちの2代目三遊亭百生)に、彼が「本当は落語家になりたかった」と心境をうちあけた結果、初代春團治の紹介を受けたというもの。もうひとつは大阪・新世界の劇場での出演を見ていた初代春團治が才能に目をつけ、直接スカウトしたというものである。 1920年入門。前座名は圓蝶の一字を取り、桂春蝶(初代。のちの代と異なり、「しゅんちょう」ではなく「はるちょう」と読む)。1921年6月には、福々しい容貌から師・初代春團治によって桂福團治と改名される(初代)。この時すでに笑福亭福團治がいたため、桂福團治が所属する吉本興行部における大看板・4代目笑福亭松鶴が抗議しているが、初代春團治はそれを突っぱね、そのまま名乗らせた。 1934年11月、初代春團治の死後間もなく、「人気もあるし、先代に一番芸風が似ている」という吉本せいの薦めにより、2代目の名跡を襲名した。 襲名に前後して妻の春枝が産後に健康を害して死去。まもなく、寄席のお茶子をしていた女性(糸)と再婚する。しかしその糸も、出産後の抜糸から高熱を発して1939年に病没した。 襲名に際し、初代が吉本に対して残した多額の借金も相続したとされるが、夫人の寿栄は、のちにこの伝説を訂正している。日中戦争の影響で寄席興行が減ってきた1939年 - 1940年頃、2代目は吉本興行部の後身・吉本興業に「師匠がそうしたように、全国を巡業して回りたい」と申し出たところ、経営する寄席での出演が減少することをよしとしない吉本が、「期限を切ってならともかく、巡業中心で、その合間に寄席に出るというのは専属契約解除に等しい」と認めず、そこではじめて初代の借金を持ち出し、巡業阻止をはかったものだという。 この吉本との確執は裁判沙汰となり、2代目は長らく、京阪神・東京・名古屋・静岡など大都市圏の寄席や劇場に「桂春團治」の名で出演することができなくなった。2代目は漫才師・浪曲師・奇術師などと一座を組み、戦後にかけて地方を巡業して自主興行をおこなった。手塚治虫は漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した。ポスターは宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている。親交を重ねるうち、2代目は手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。手塚の著書では、当時近所に住んでいてポスターを制作することになり、それを届けた際に「手塚さん、ええ声してなはるやないか。よう通るし、スジがええ」「噺家になっても充分使える声や」と誘われたという記述になっている。 1946年の九州巡業の際には、実子の一(はじめ)が荷物持ち兼雑用係として同行、博多で急病を発した漫才師の代役として舞台に上がり、聞き覚えの「寄合酒」を演じる。この経験により一は落語に興味を抱き、翌1947年3月に2代目に弟子入りして桂小春を名乗ることになる。 私生活では1944年2月に、広島市の料理屋「小松」の娘だった河本寿栄と3度目の結婚をする。寿栄の父は素人芝居を結成して公演をおこない、その際2代目を招いて交流があった。
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