落語界との関係
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入門当初は落語家として活動していた。初舞台は入門半年後で、場所は京都花月。『西の旅』と総称される古典落語のうち『播州めぐり』を10日間ほど口演した。本人いわく「初舞台では緊張で頭が真っ白になって、ネタをやり直した」という。「15分ぐらいのところで頭が真っ白になり始めからやり直した、そしたら所要時間が45分にもなった」ともされる。「この後二人は横山エンタツ・花菱アチャコとなり漫才を始めました」と言ってサゲたという。4代目林家染丸も、この頃に自身が主宰した落語会で『播州めぐり』に真剣に取り組むさんまを目の当たりにしている。 しかしタレントとして多忙を極める中でも行なっていた自身の落語の技量に限界を感じ、また師匠から「落語やめるか?」という提案もあり1980年11月8日放送の関西テレビ『イヨッ!まってました!東西落語名人会』の司会として出演した際に、冒頭で「私は今日限り落語家を辞めます」とテレビの前で宣言した。結果として高座で古典落語を演じたのは1979年7月27日の「千里繁昌亭」の出演が最後であった。ただし翌年桂三枝が主宰している創作落語の会のオファーを受け快諾。1981年7月11日に高座に上がり「神様への願い」と言う漫談風創作落語を演じた。その後は、テレビ番組の企画などで一部だけ演じることはあっても、落語をまるまる演じることは無く落語界や寄席とは距離を置いていたが、落語家としての活動はしていないものの桂三枝会長の下、上方落語協会所属となっている。2004年「彦八まつり」に実行委員長・笑福亭鶴瓶の要請に応える形で出演。混乱を避けるため、出演日は公表されなかったが、落語を披露するという情報も手伝って、来場者が2日間で例年の2倍である10万人を超え、過去最多記録を更新した(着物姿で「大喜利ガバチョ!」に出演したものの、落語は口演しなかった)。 2012年7月23日、「なんばグランド花月」にて六代桂文枝襲名披露口上に月亭八方・桂きん枝とともに出演。司会の八方はさんまを「吉本興業の屋台骨」と紹介し、さんまは笑福亭の五枚笹紋付きを着用した。
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