萩城跡とは? わかりやすく解説

萩城跡

名称: 萩城跡
ふりがな はぎじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 山口県
市区町村 萩市堀内北方町・南方河町・平安
管理団体 萩市(昭391029)
指定年月日 1951.06.09(昭和26.06.09)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成21.02.12
解説文: 毛利輝元の築くところであって慶長九年六月起工十一月此所に移り十三六月完成した。尓来文久三年毛利敬親藩庁山口遷すまで毛利氏居城となった
城は半島状をなした地域にあり、その先端部北方海中斗出屹立する指月山山麓平地亘って営まれている。頸部外堀穿ち内に三丸外郭として順次山裾に向って二丸・本丸を布置各部は堀を以て遮断され指月山頂上にも別に本丸・二丸を構える。いま建物はすべて失はれ改変のあともあるが、江戸時代雄藩の城として歴史上重要であり且つよく旧規とどめていて縄張また巧であり、城郭史上重要な遺跡である。
S53-06-029史跡萩城跡.txt: 萩城跡は昭和26年6月9日史跡指定されているが、さらに昭和42年1月10日城の外郭部三ノ曲輪のうち、北総門通一帯主として上級家臣邸宅地域を追加指定したその後、三の曲輪東半部(現疏水より東)の大半が、萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区として、昭和51年9月4日重要伝統的建造物群保存地区選定された。今回北総門通一帯史跡指定地を萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区追加する形で選定し直し、三ノ曲輪東半部全体重要伝統的建造物群保存地区として保存をはかる。このため、この部分史跡指定解除する
 なお、東辺の外濠跡として史跡指定した部分存続することとし、これに三ノ曲輪東辺と南辺の可能な範囲外濠跡を追加指定して、現在、その痕跡とどめている外濠全体史跡として保存する
S51-12-030[[萩城跡]はぎじようせき].txt: 昭和26年6月9日史跡指定し、昭和42年1月10日追加指定行った萩城跡について、次のとおり追加指定を行う。
 (1) 二ノ[[曲輪]くるわ]の東を画する城壁通称銃眼土塀東側帯状地域は、築城当時より城壁中央部汐入門が設けられ海上よりの物資搬入の役を果たしていた地域であるため昭和51年12月追加指定する
 (2) 二ノ曲輪以西の地は、築城当時はほぼ全面であったが、その後陸地化し、その一部明和2年(1765)、御馬場開かれ御門番所御馬見所等が作られ万延元年1860)西ノ浜操練場が開かれた地域である。昭和51年12月この地域追加指定する
S41-6-069萩城跡(追加指定.txt: 萩城堀内(三ノ[[曲輪]くるわ])は城の外郭部で、主として重臣邸宅地域であり、また、堀内の堀より外の城下町は、ごばん目状に画され中下武士の武家屋敷町屋連なっていた。今回城下町のうち呉服町南古萩町一部区域外郭部のうち北総門通と[[平安古]ひやこ]総門跡の[[平安橋]へいあんばし]をそれぞれ指定または追加指定し歴史的景観保存する昭和41年指定した城下町のうちには、木戸孝允旧宅史跡)・高杉晋作旧宅跡・青木[[周弼]しゅうすけ]と同周旧宅等があり、長く連なる築地の間に門が点綴している。また、外郭部の北総通には、家老益田氏・[[周布]すふ]氏の堂々たる長屋門土壁連なり萩城築いた毛利輝之夫妻の墓もこの通り面している。平安橋石橋で、猿橋似た構造をもっている。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  萩ノ尾古墳  萩反射炉  萩城城下町  萩城跡  萩往還  萩藩主毛利家墓所  葉山尻支石墓群



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