萩藩主毛利家墓所とは? わかりやすく解説

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萩藩主毛利家墓所

名称: 萩藩主毛利家墓所
ふりがな はぎはんしゅもうりけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 山口県
市区町村 萩市
山口市
管理団体
指定年月日 1981.05.11(昭和56.05.11)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S53-06-018[[萩藩主毛利家墓所]はぎはんしゅもうりけぼしょ].txt: 萩藩毛利家墓所は、大照院隣接地東光寺隣接地にある。毛利輝元の子初代藩主秀就は、慶安4年(1651)、萩城没し天樹院火葬されたあと歓喜寺葬られた。2代藩主綱広は、亡父のため、承応3年歓喜寺改修着手し明暦2年(1656)に完工した。この時、秀就の法号大照院因んで寺名大照院改めた大照院臨済宗の寺で、延享4年火災のため全焼し6代藩主宗広の時、寛延3年再建した東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年創建した黄檗宗の寺である。
 東光寺創立以降歴代藩主大照院の両寺に交互に葬られることとなった。即ち、大照院には、初代藩主秀就・2代藩主綱広・4代藩主吉広・6代藩主宗広8代藩主治親10代藩主斉熙・12藩主斉広の7藩主が、東光寺には、3代藩主吉就・5代藩主吉元・7代藩主重就・9代藩主斉房・11藩主斉元の5藩主葬られた。
 大照院墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主室、一族殉死者等のものである墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて花崗岩製の五輪塔型で統一され水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさ藩主夫妻一族等の2種類分けてほぼ統一され藩主夫妻のそれはとくに大型である(総高4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣めぐらされており、藩主玉垣の内側と外側には青栗石敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また、墓所内には、605基の石燈籠がある。
 東光寺墓所は、大きく4群に分かれている。墓所内にある墓の数は40基で、藩主の墓5基を除いた35基は、藩主室、一族等のものである墓標大照院とは異なり花崗岩製の唐破風笠石方柱型(藩主夫妻の墓の総高は約4.4メートル)で統一され墓石には法号が、笠石には藩主夫妻場合には澤潟紋が刻まれているが、没年月日刻まれていない。墓は、大照院と同様、石柱玉垣囲まれ藩主墓の参道には各々鳥居(計5基)が建っているほか、藩主墓前には、生前業績記した砂岩製の神道碑が亀跌の上立っている。墓所内は、参道石段は、大照院東光寺とも玄武岩造られている。
 この両墓所は、明治初年それぞれ大照院東光寺から分離され東光寺墓所明治4年)、毛利氏所有となり、現在に至っている。
 毛利輝元は、慶長5年関ヶ原の戦いの際、主将におされて豊臣方についたこのため中国8か国120万余石を領していた毛利氏は、周防長門2ヶ国36千石に削封され、輝元は、同年10月、その責をとって隠居し、子の秀就がわずか6歳家督を嗣いで移った寛永2年(1625)、輝元が没すると、天樹院葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。
 萩藩主毛利家墓所は、大照院東光寺ともに、山林を背にして広大な地域整然と配置され、その規模大なることといい、荘厳幽邃ことといい、近世大名墓所代表的なものであり、大名墓制葬制を知る上で重要である。今回こうした歴史的重要性かんがみ境内地含めた大照院墓所同じく東光寺墓所、旧天樹院の輝元墓所一括し、萩藩主毛利家墓所として史跡指定する
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