英米法における主権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:11 UTC 版)
ブラックストンは『イギリス法釈義』(1765-69)で、主権の自然的基礎には、共同体の利害を識別する知恵、利害を追求する上で必要な徳、そしてこれらの知恵と意図を行動に移する権力または強さの3つがあり、これらの主権の基礎は、十分に組織されたあらゆる政府において必要なものであり、またあらゆる政府には至高の、抵抗できない、絶対の、支配されない権威があり、そこにjura summi imperii(最高権力)は属すると主張した。ブラックストンの解釈はイギリス、そしてアメリカ合衆国にも非常に強い影響を与えた。 1775年、アメリカ独立戦争が起こり、1783年、パリ条約でイギリスがアメリカ合衆国を主権国家として認めた。アキル・アマーはアメリカ合衆国憲法では人民主権が定められたとする。 19世紀イギリスの法学者オースティンはブラックストンの教説に影響を受けて、あらゆる政体は主権を保持すべきであると主張した。またオースティンは主権は、法を制定する最高機関の国民議会に属するとし、また法は主権者の命令であるとした。オースティンの主著The Province of Jurisprudence Determined(1832年)では、主権者と主権体( a sovereign person or body)の法概念を生み出した。 ベンサムは『統治論断片』においてブラックストンを批判的にとらえ、「政府の権威は代表者会議によってさえも制限されないし、ドイツ帝国やネーデルラント王国やスイス各州や古代アカイア同盟における政府などは存在しないといえる」と述べた。オースティンと違ってベンサムはアメリカのような連邦制国家に主権は認めなかった。ベンサムとオースティンは規範的な意味ではない「服従の習慣」が政治と法の理解に欠かせないとした。ベンサムによれば、国民が統治者へ服従するという習慣があることによって政治的社会は存在する。オースティンと違ってベンサムは服従という習慣がいかに主権を限定できるのかについて、服従傾向は制限しうるのであり、諸国民は自分の国家にも他の統治組織にも服従しない準備があるとしている。ベンサムは自然権論や社会契約説をフィクションであるとしてフランス人権宣言などは法秩序と両立しない危険な過ちであるとして批判した。しかし、ベンサムは1820年代に執筆した憲法案において国家権力は憲法などの法構成権力(Constitutive power)に負っているとし、その法権力は国民の総体に属するとし、国民の幸福のための安定保障は人民の主権ということにまとめることができるとした。ベンサム憲法において国家権力は、立法・行政・司法権力にあり、法構成権力(Constitutive power)という思想が誕生した。こうしてベンサムは主権を「私達人民」へと移譲し、ホッブズ的な主権理解を変革することに成功した。現在では主権を絶対的で無制約なものと理解する人は少ないし、主権はもっと幅広い思想として規定されており、国家の権力と権威は諸集団や制度の多元性ののなかへ分けられている。 またダイシーも国会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配を主張した。また、アメリカ合衆国最高裁判所はマーベリー対マディソン事件において違憲かどうかを司法審査する違憲審査制を世界で初めて確立したが、これは司法主権とはいえない。 このほかハロルド・ラスキやヒューゴ・クラベ(Hugo Krabbe)などの多元主義国家論は、国家の統治は様々な政治的、経済的、社会的、宗教的集団によって担われていると考え、国家のみが特別な権威をもっているのではないとし、国家主権を避け、団体主権、共有主権、分割主権などが主張された。
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