航空母艦の優位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 20:25 UTC 版)
「蒸気船時代の海戦戦術」の記事における「航空母艦の優位」の解説
イギリス軍は1940年の11月、イタリア海軍基地ターラントを空襲した(タラント空襲)。この時、イタリアの戦艦を3隻沈めており、航空母艦の可能性の高さを示す最初の機会となった。しかし、その成功は港に停泊しているところを攻撃したゆえと考えられ、戦艦の時代が終わったことを信じ込ませるまでには至らなかった。 航空母艦の戦術的また戦略的能力を実証したのは日本軍だった。1937年からの中国沿岸での作戦行動での経験を生かし、日本軍は複数の航空母艦からなる常設の戦隊を組織するようになった。イギリス軍やアメリカ軍はまだ単独あるいは2隻の空母での行動を行っていたが、1941年までに日本軍は6隻の空母を含む空母機動部隊を組織していた。 太平洋戦争の先制攻撃である真珠湾攻撃を行ったのはこの部隊であった。同じ部隊が太平洋を横切り、オランダ領東インド諸島、ラバウルで連合国軍を攻撃し、オーストラリアのダーウィン、そしてセイロン島のコロンボやトリンコマリーまで攻撃した。東インド諸島の連合国軍は敗北を喫し、イギリス東洋艦隊の旧式戦艦はアフリカ沿岸、ケニアのキリンディニまで退却することになった。 これらの成功にもかかわらず、日本軍の多くの提督たちは航空母艦の戦術的優位を認識できずにいた。戦艦を空母の護衛につける代わりに、日本海軍は来るべき艦隊決戦に備えて戦艦を積極的に使用せず、温存し続けたが、結局その機会は訪れなかった。 日本軍が真珠湾でアメリカ太平洋艦隊のほぼすべての戦艦を沈めるか損傷させるという成功は、アメリカ軍に航空母艦を用いた戦術へ転向する機会を与えた(彼らは遅かれ早かれそのような戦術を採ったとは思われるが)。アメリカ軍はすぐに1群の任務部隊を作り上げた。部隊のそれぞれが1隻の航空母艦を中心に構成された。日本軍が占領している島々を攻撃し続けることにより、アメリカ軍は次第に航空母艦の扱い方を心得てきた。任務部隊の司令官が乗艦すべきは空母であり、護衛の巡洋艦ではないことを学んだ。また任務部隊の戦闘機指揮官が一緒に乗艦するという戦術も考案した。1942年には航空母艦を中心とした4つの大きな戦闘があった。珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、そして南太平洋海戦である。これらは航空機のみにより戦われており、南太平洋海戦において漂流中の放棄されたホーネットを除き、両軍とも水上艦艇を互いに視認することは無かった。日本軍の空母は、アメリカ軍航空機に何度も攻撃され、4つの戦いで6隻の空母(「祥鳳」、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「龍驤」)を失うことになった。一方でアメリカ軍は3隻の空母(「レキシントン」、「ヨークタウン」、「ホーネット」)を失っており、それとは別に潜水艦により1隻(ワスプ)を失っている。 アメリカ軍の新しい高速戦艦が1942年の夏に太平洋戦線に到着した時、もはや独立した戦艦戦隊が編成されることはなく、防御の弱い空母の護衛にその重砲を役立てるべく空母任務部隊に組み入れられた。1943年までに、数多くの空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦が太平洋で任務に就き、高速空母任務部隊が編成されて、続く2年間にわたって太平洋を席巻し、日本軍の島嶼基地を孤立化させ、打ち破り、破壊していった。
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