聖ヨハネ騎士団植民地とは? わかりやすく解説

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聖ヨハネ騎士団植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/15 11:11 UTC 版)

聖ヨハネ騎士団によるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「聖ヨハネ騎士団植民地」の解説

1639年、ポワンシーはフランスアメリカ諸島会社から派遣され総督としてセントクリストファー島赴任した。まもなく、彼はルイ14世により全カリブ海植民地任地とする中将任じられた。ここでポワンシーは、島での建物建設大規模な投資をした。さらに周辺の島々にもフランス領土広げ1648年にはヨーロッパ人として初めサン・バルテルミー島植民地建設したこの年、ポワンシーはセント・マーチン島小さなフランス入植地300人の入植者派遣し管理下に置いた。ここで彼はオランダコンコルディア条約を結び、現在に至るまで残るセント・マーチン島の仏分割線を画定した。1650/1年にはセント・クロイ島にも入植地建設した。 さらにポワンシーは、衰退向かっていたアメリカ諸島会社とも対立し自分支配下置いた島々において自ら絶対的な支配者としての立場確立していった。彼はカトリック騎士団員ありながら島々にいるイギリス人オランダ人ユグノー新教徒親しく交際したり、洗礼受けた奴隷息子解放することを拒んだしたためカプチン・フランシスコ修道会宣教師衝突している。ポワンシーの諸島統治過酷な部分があり、各地彼に対す抵抗起きた。さらに彼はヨーロッパにある騎士団コマンドリーからの収入着服し、島での豪勢な暮らしにつぎ込んだため、騎士団からも不興買っていた。ついにアメリカ諸島会社は、フランス王命令でポワンシーをフランス本土召喚しブルゴーニュ出身紳士Noëlle Patrocles de Thoisyを後任充てようとした。しかしポワンシーは承諾せず、Thoisyは捕らえられて鎖に繋がれたうえでフランスへ送還された。 1649年、ポワンシーは自分地位を守るため、聖ヨハネ騎士団諸島購入するよう持ち掛けた。すでにアメリカ諸島会社衰退著しく、ポワンシーは会社弱さと自らの優位を力で示したのである。しかも当時フランス宰相ジュール・マザラン三十年戦争終結させるためのヴェストファーレン条約締結のため忙殺されており、植民地政策注意を向ける余裕無かった1651年アメリカ諸島会社解散し、その植民地開発特権各方面売却された。マルティニークグアドループなど、個人売り渡された島もあった。 ラスカリスの承認のもと、マルタ騎士団セントクリストファー島セント・クロイ島サン・バルテルミー島セント・マーチン島購入した。この売買協定は、フランス宮廷マルタ騎士団大使ジャック・ド・サブレにより調印された。4島における騎士団占有権は、2年後フランスと結びなおした条約確認された。ルイ14世は4島へ宗主権主張し続けていたが、聖ヨハネ騎士団聖俗両面で4島の支配固めていった。一方で聖ヨハネ騎士団には、4島に派遣するのをフランス人騎士に限ること、またフランス王代替わりするたびに1000エキュ当の金冠献上するという条件課された。 聖ヨハネ騎士団最高評議会は、ポワンシーを引き続き総督の任に従事させる一方でフランス領時代の前ヌベールフランス総督シャルル・ド・モンマニーをセントクリストファー島派遣し、ポワンシーを監督しようとした。モンマニーは財務面でポワンシーを補佐することを希望していたが、ポワンシーはあらゆる外部からの介入拒否し、モンマニーはフランスへ送り返されてしまった。1653年、モンマニーは「副総督」という肩書与えられ総長の公式な命を帯びて再び諸島赴いた。しかしそれでもポワンシーはモンマニーと権力分け合うことを拒否し瞬く間にモンマニーの実権奪ってしまった。モンマニーはセントクリストファー島農場暮らしながら、ポワンシー死後の返り咲き狙っていた。しかし1657年、モンマニーはポワンシーより先に死去した 。 ポワンシーはフランス領時代変わらず植民地開発に力を注いだセントクリストファー島には頑強美し要塞と、それに付随する教会道路病院、そして自身のための大邸シャトー・ド・ラ・モンターニュ建てた一方で首都バセテールの外では、騎士団政庁支配力不確かなものであったサン・バルテルミー島入植者原住民カリブ族襲撃遭い生き残った者は入植地放棄して島を去った。そこでポワンシーは30人入植団を改めサン・バルテルミー島送った1664年までに、その数は100人にまで増えた1657年セント・クロイ島反乱起き聖ヨハネ騎士団による支配覆される事件起きた。ポワンシーは新たな総督派遣して反乱鎮圧し要塞修道院建てた後、島ののほとんどを伐採してプランテーション農園にしてしまった。 モンマニーの死後聖ヨハネ騎士団2人副総督派遣したそのうち一人シャルル・ド・サルだった。彼はサヴォイア聖人フランシスコ・サレジオの甥で、カリブ海植民地でも入植者たちの人望集めた。ポワンシーは1660年死去したが、その直前イギリスセントクリストファー島カリブ族との和平取りまとめた。ただ、この平和は長くは続かなかった。2代目総督には、シャルル・ド・サル就任した

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