聖ヨハネ騎士団植民地
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「聖ヨハネ騎士団によるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「聖ヨハネ騎士団植民地」の解説
1639年、ポワンシーはフランスのアメリカ諸島会社から派遣された総督としてセントクリストファー島に赴任した。まもなく、彼はルイ14世により全カリブ海の植民地を任地とする中将に任じられた。ここでポワンシーは、島での建物建設に大規模な投資をした。さらに周辺の島々にもフランスの領土を広げ、1648年にはヨーロッパ人として初めてサン・バルテルミー島に植民地を建設した。この年、ポワンシーはセント・マーチン島の小さなフランス入植地に300人の入植者を派遣し、管理下に置いた。ここで彼はオランダとコンコルディア条約を結び、現在に至るまで残るセント・マーチン島の仏蘭分割線を画定した。1650/1年にはセント・クロイ島にも入植地を建設した。 さらにポワンシーは、衰退に向かっていたアメリカ諸島会社とも対立し、自分の支配下に置いた島々において自ら絶対的な支配者としての立場を確立していった。彼はカトリックの騎士団員でありながら、島々にいるイギリス人、オランダ人、ユグノーら新教徒と親しく交際したり、洗礼を受けた奴隷の息子を解放することを拒んだりしたため、カプチン・フランシスコ修道会の宣教師と衝突している。ポワンシーの諸島統治は過酷な部分があり、各地で彼に対する抵抗が起きた。さらに彼はヨーロッパにある騎士団のコマンドリーからの収入を着服し、島での豪勢な暮らしにつぎ込んだため、騎士団からも不興を買っていた。ついにアメリカ諸島会社は、フランス王の命令でポワンシーをフランス本土に召喚し、ブルゴーニュ出身の紳士Noëlle Patrocles de Thoisyを後任に充てようとした。しかしポワンシーは承諾せず、Thoisyは捕らえられて鎖に繋がれたうえでフランスへ送還された。 1649年、ポワンシーは自分の地位を守るため、聖ヨハネ騎士団に諸島を購入するよう持ち掛けた。すでにアメリカ諸島会社は衰退著しく、ポワンシーは会社の弱さと自らの優位を力で示したのである。しかも当時、フランス宰相ジュール・マザランは三十年戦争を終結させるためのヴェストファーレン条約締結のため忙殺されており、植民地政策に注意を向ける余裕が無かった。 1651年、アメリカ諸島会社が解散し、その植民地開発の特権が各方面に売却された。マルティニーク、グアドループなど、個人に売り渡された島もあった。 ラスカリスの承認のもと、マルタ騎士団はセントクリストファー島、セント・クロイ島、サン・バルテルミー島、セント・マーチン島を購入した。この売買協定は、フランス宮廷でマルタ騎士団大使ジャック・ド・サブレにより調印された。4島における騎士団の占有権は、2年後にフランスと結びなおした条約で確認された。ルイ14世は4島への宗主権を主張し続けていたが、聖ヨハネ騎士団は聖俗両面で4島の支配を固めていった。一方で聖ヨハネ騎士団には、4島に派遣するのをフランス人騎士に限ること、またフランス王が代替わりするたびに1000エキュ相当の金冠を献上するという条件が課された。 聖ヨハネ騎士団の最高評議会は、ポワンシーを引き続き総督の任に従事させる一方で、フランス領時代の前ヌベールフランス総督シャルル・ド・モンマニーをセントクリストファー島に派遣し、ポワンシーを監督しようとした。モンマニーは財務面でポワンシーを補佐することを希望していたが、ポワンシーはあらゆる外部からの介入を拒否し、モンマニーはフランスへ送り返されてしまった。1653年、モンマニーは「副総督」という肩書を与えられ、総長の公式な命を帯びて再び諸島に赴いた。しかしそれでもポワンシーはモンマニーと権力を分け合うことを拒否し、瞬く間にモンマニーの実権を奪ってしまった。モンマニーはセントクリストファー島の農場で暮らしながら、ポワンシー死後の返り咲きを狙っていた。しかし1657年、モンマニーはポワンシーより先に死去した 。 ポワンシーはフランス領時代と変わらず植民地の開発に力を注いだ。セントクリストファー島には頑強で美しい要塞と、それに付随する教会、道路、病院、そして自身のための大邸宅シャトー・ド・ラ・モンターニュを建てた。一方で、首都バセテールの外では、騎士団政庁の支配力は不確かなものであった。サン・バルテルミー島の入植者は原住民カリブ族の襲撃に遭い、生き残った者は入植地を放棄して島を去った。そこでポワンシーは30人の入植団を改めてサン・バルテルミー島に送った。1664年までに、その数は100人にまで増えた。1657年、セント・クロイ島で反乱が起き、聖ヨハネ騎士団による支配が覆される事件が起きた。ポワンシーは新たな総督を派遣して反乱を鎮圧し、要塞や修道院を建てた後、島の森のほとんどを伐採してプランテーション農園にしてしまった。 モンマニーの死後、聖ヨハネ騎士団は2人の副総督を派遣した。そのうちの一人がシャルル・ド・サルだった。彼はサヴォイアの聖人フランシスコ・サレジオの甥で、カリブ海植民地でも入植者たちの人望を集めた。ポワンシーは1660年に死去したが、その直前にイギリスやセントクリストファー島のカリブ族との和平を取りまとめた。ただ、この平和は長くは続かなかった。2代目の総督には、シャルル・ド・サルが就任した。
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