聖ヨハネ騎士団員 (1641年–66年)
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サン=ローランは1641年に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)に加入した。1651年、フランスの勅許会社であるアメリカ諸島会社が破産したことをきっかけに、その傘下のセントクリストファー島総督で聖ヨハネ騎士団員でもあったフィリップ・ド・ロンヴィレール・ド・ポワンシーの働きかけにより、カリブ海のセントクリストファー島、サン・バルテルミー島、セント・マーチン島、セント・クロイ島の4島を聖ヨハネ騎士団が12万エキュで購入することになった。フランス王ルイ14世は諸島への宗主権を主張し続ける一方で、ポワンシーを総督として認めた。12万エキュのすべてが支払われぬうちに、ポワンシーは1660年に死去した。2代目の総督となったのは、サヴォイアの聖人フランシスコ・サレジオの甥シャルル・ド・サルだった。この頃、フランスの財務総監ジャン=バティスト・コルベールが聖ヨハネ騎士団に対し、4島をフランスに返還するよう圧力を強めていた。 1665年、サン=ローランが聖ヨハネ騎士団植民地の副総督を務めていた時、騎士団が正式に4島をフランスへ返還することが決まり、その管理権はフランス西インド会社に移った。この年、ヨーロッパで第二次英蘭戦争が勃発した。翌1666年、フランスがオランダ側で参戦した。この時までセントクリストファー島はフランスとイギリスが分割統治していたのだが、1666年4月21日(グレゴリオ暦)にこの島でも戦闘が勃発し、セントクリストファー島のフランス勢力は2日間のうちに圧倒的多数を誇るイギリス陣営を破ったが、総督シャルル・ド・サルはイギリスの総督ウィリアム・ワッツと戦い、戦死した。サン=ローランはイギリス軍の降伏を受ける立場となり、その後セントクリストファー全島の総督となった。しかしフランス王からの公式な任命が無かったため、島のフランス軍はサン=ローランに従うことを拒否した。
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