聖ヨハネ騎士団員とは? わかりやすく解説

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聖ヨハネ騎士団員 (1641年–66年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 08:18 UTC 版)

クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の記事における「聖ヨハネ騎士団員 (1641年66年)」の解説

サン=ローラン1641年聖ヨハネ騎士団マルタ騎士団)に加入した1651年フランス勅許会社であるアメリカ諸島会社破産したことをきっかけに、その傘下セントクリストファー島総督で聖ヨハネ騎士団員でもあったフィリップ・ド・ロンヴィレール・ド・ポワンシーの働きかけにより、カリブ海セントクリストファー島サン・バルテルミー島セント・マーチン島セント・クロイ島の4島を聖ヨハネ騎士団12エキュ購入することになったフランス王ルイ14世諸島への宗主権主張し続け一方で、ポワンシーを総督として認めた12エキュのすべてが支払われぬうちに、ポワンシーは1660年死去した2代目総督となったのは、サヴォイア聖人フランシスコ・サレジオの甥シャルル・ド・サルだった。この頃フランス財務総監ジャン=バティスト・コルベール聖ヨハネ騎士団対し、4島をフランス返還するよう圧力強めていた。 1665年サン=ローラン聖ヨハネ騎士団植民地副総督務めていた時、騎士団正式に4島をフランスへ返還することが決まり、その管理権フランス西インド会社移ったこの年ヨーロッパで第二次英蘭戦争勃発した。翌1666年フランスオランダ側で参戦した。この時までセントクリストファー島フランスイギリス分割統治していたのだが、1666年4月21日グレゴリオ暦)にこの島でも戦闘勃発しセントクリストファー島フランス勢力2日間のうちに圧倒的多数を誇るイギリス陣営破ったが、総督シャルル・ド・サルイギリス総督ウィリアム・ワッツと戦い戦死したサン=ローランイギリス軍降伏を受ける立場となり、その後セントクリストファー全島総督となった。しかしフランス王からの公式な任命無かったため、島のフランス軍サン=ローランに従うことを拒否した

※この「聖ヨハネ騎士団員 (1641年–66年)」の解説は、「クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の解説の一部です。
「聖ヨハネ騎士団員 (1641年–66年)」を含む「クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の記事については、「クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の概要を参照ください。

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