経済の歴史
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「ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)」の記事における「経済の歴史」の解説
ニューベッドフォード地域におけるピルグリム開拓地の経済は当初、幾つかの農業村と漁業村に基づいていた。初期のベッドフォード村はすぐに商業地帯となり、そこから捕鯨と外国貿易の港になった。18世紀初期、ラッセル家がこの地域を購入し、大きな村に発展させた(ジョセフ・ラッセル3世が最も大きな貢献を果たした)。帆船時代に建造されたものとしてスクーナーのキャロラインや捕鯨船のチャールズ・W・モーガンがあった。18世紀までに、ナンタケット出身の捕鯨商人など地域の事業家がこの町に惹きつけられ、国内でも最大級の捕鯨の町になった。この商人達の中でも最も重要だったのがジョセフ・ロッチであり、1765年にジョセフ・ラッセル3世から10エーカー (4 ha) の土地を購入し、そこで息子たちとともに事業を行った。ロッチは鯨から得られる油を精製し、蝋燭を作るのに良いと考えニューベッドフォードに事業を移した。捕鯨業の中でもこの部分はボストン、ニューポート、プロビデンスの商人カルテルに独占されていたので、ロッチは本土に移ることで自分達で取り扱うのが良いことだと考えた。 ニューベッドフォードとナンタケットの間の関係は、2つの都市が捕鯨産業を支配するようにさせた。1848年、ニューベッドフォードの住民ルイス・テンプルが抜けどめ銛を発明し、捕鯨産業を革新した。このことでニューベッドフォードをナンタケットより優位に立たせ、捕鯨産業で最強の都市になった。他にも捕鯨船の喫水が深くなったことがある。これは船の建造で鋼鉄製部品を大いに増やした結果としてでもあり、水深の浅いナンタケット港には負担となった。クリッパー船の中でも最長の寿命を誇ったサイレンは、主にホノルルからニューベッドフォードまで鯨油や捕鯨製品を運ぶために10年間以上も使われ、数年間はニューベッドフォードのウィリアム・H・ベッシーが所有していた。世界中で広く使われた捕鯨製品(その最たるものが鯨油)を支配した結果として、世界でも一人当たりの所得が最も高い町の1つになった。 1849年には多くの捕鯨業者が廃業した。彼らの多くがニューベッドフォードからカリフォルニア州に移ってゴールドラッシュを追求した。この期間にニューベッドフォードで働いていたハーマン・メルヴィルが小説『白鯨』を書いて、1851年に出版した。この小説では、現在も残っているシーマンズ・ベセル(海員の礼拝堂)を舞台にしたシーンなど、ニューベッドフォードが舞台となった。この小説はニューベッドフォードに力を与えたが、1859年には鯨油に代わる手段となる石油が発見されて、捕鯨産業は斜陽になっていった。1871年にはアラスカ海岸沖の氷の海で、ニューベッドフォードの捕鯨船22隻が失われるという追い打ちがあった。国内最大の捕鯨会社であるニューベッドフォードのJ & W・R・ウィング社が1914年に最後の捕鯨船を手放し、スクーナーのジョン・R・マンタで最後の捕鯨漁に出た1925年にニューベッドフォードの捕鯨産業が終わりを迎えた。 1840年代半ば、ペンシルベニア州で発見された原油がニューベッドフォードまで運ばれ、灯油などの油に精製されて、国内初の石油燃料精製所となった。その後スタンダード石油がフィッシュ島にあったこの精製所を買収した。フィッシュ島には石炭ガス化の実験施設もあったが、建物が爆発してしまった。 ニューベッドフォードは繊維産業でその豊かさを保つことができた。1881年から、繊維産業が大きく成長して市の経済を保つことができた。1895年から1899年にニューベッドフォード繊維学校(マサチューセッツ大学ダートマス校の前身)が創設され、繊維の隆盛時代をもたらしたが、世界恐慌の時代に衰退を始め、1940年代にはその時代も終わった。 繊維産業の最盛期には、ニューベッドフォードの繊維工場を所有する32の綿糸製造会社が3万人以上の労働者を雇用していた(その価値は1億米ドル以上あった)。 工具と金型の製造も1970年代から徐々に衰退していった。 1990年代半ばまで、ジョージズ・バンクで漁をする繁栄する漁業町でもあったが、1996年に過漁を制限する措置が取られ、地域の漁業も衰退した。
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