米キャンプ参加から五冠王
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明治大学旧制専門部での3年間を終え、そのまま学部(3年間)へ進学するかプロ入りするかで迷った杉下は結局、1949年に中日ドラゴンズへ入団した。父親の病没後に駄菓子店を営んでいた母親からは「お金は何とかなるから学部へ進め。野球を職業にしてはいけない」と猛反対され、明治大学監督の宮坂達雄からは財界からスポンサーを探したが、他人の世話になって大学を卒業することに抵抗を感じていたという。杉下の中日入団に関しては天知と、駿台倶楽部会長だった小西得郎の世話があったという。また、入団直前には当時の人気コメディアンで亡くなったばかりの高勢実乗の2代目としてスカウトされたが、その理由は「(杉下の)風貌がよく似ていた」というだけだったという。契約金50万円・年俸36万円での入団で、当時はラーメンが1杯50円の時代だったが、「10年やればサラリーマンの生涯賃金より多くなるはず」と言われたという。 プロ初登板となった1949年4月3日の対南海ホークス2回戦(中日球場)で初勝利を挙げると、対東映フライヤーズ戦では封印していたフォークボールを用いて大下弘から3打席連続三振を奪った。同年は右肩を痛めるも8勝を挙げ、1950年からは1955年まで6年連続20勝を含む、9年連続2桁勝利を記録した。 1950年の春季キャンプでは右肩の痛みから球拾い専門となったが、5月頃から痛みが消え、再発防止のために名古屋での試合後は超短波治療を受け続け、55試合登板で27勝(15敗)、防御率3.20の好成績を残した。またこの年の4月21日には佐賀県鹿島市に在する祐徳稲荷神社がかつて運営していた祐徳国際グラウンドでの対西日本パイレーツ第5回戦の6回表にプロ入り初本塁打となる満塁本塁打を野本喜一郎(後に埼玉県立上尾高等学校、東洋大学などで監督を務めた)から放っているが、これはセントラル・リーグ初の“投手が打った満塁本塁打”1号であり、前身時代を含めた中日球団史上初となる“プロ入り初本塁打が満塁本塁打”という快記録でもあった。 1951年2月下旬にはサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールからキャンプに招待されて渡米する。杉下自身は後年、「どうして選ばれたのか分からないが、投手はオレ一人。その代わり野手は川上さん、藤村さん、小鶴さんと当時の強打者ばかり。球団代表が『杉下は(キャンプ参加のために)半年間帰国出来ないかもしれん』と話すと、(天知)監督は困った顔をしていたそうだ」「川上さんは将来の日本球界を背負って立てるよう、『監督やコーチをよく見ておくように』と指示が出ていたらしい」と述べている。その甲斐あって同年は28勝(13敗)で初の最多勝、防御率2.35で沢村賞を初受賞した。 1952年も32勝を挙げる活躍で2年連続の沢村賞を受賞している。 杉下にとってプロ野球生活最高の年となった1954年は、32勝・防御率1.39・273奪三振を記録して中日ドラゴンズの初優勝を飾るだけでなく、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた。それ以外にもMVPとベストナイン、沢村賞に関しては史上初の3度目の受賞となった。優勝を争った読売ジャイアンツからはチームで14勝(12敗)を挙げたが、杉下ひとりで11勝を挙げた。同年の日本シリーズ(対西鉄ライオンズ戦)においても7試合中5試合に登板し、4試合で完投、最終戦では後述するように普段は1試合に数球しか投げなかったフォークを多用し、3勝1敗で球団史上初となる日本一に貢献してシリーズMVPに輝いた。
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