筋書の掲載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 17:29 UTC 版)
『歌舞伎新報』掲載の諸記事の中でも、最も中心的な位置を占めていたと考えられているのが筋書だった。筋書とは「新作狂言の梗概を舞台面に即した形で記した」記事のことをさすが、依然として江戸からの原則が守られ、芝居の台本が外部に公開されることがなく、脚本集などの出版も滅多に行われなかった明治初期にあっては『歌舞伎新報』の筋書に「数少ない〈読む芝居〉としての価値」があったと目されている。『歌舞伎新報』もこうした同時代の状況に触れながら「御存知の通り演劇道の習慣にて作者の外は正本を他人に見するものならねど弊社は座方并に作者等へ内縁もあるに任せ特別の訳にて正本の一覧を乞その筋書を記す」と述べている通り、一連の筋書の掲載が可能になったのは『歌舞伎新報』の編集者を務めていた久保田彦作が竹柴幸治という河竹黙阿弥門下の狂言作者であり、従って『新報』自体も「幕内に密接に繫りを持った」雑誌としての性質を帯びていた為であった。 誌上の筋書は落合芳幾らの挿絵が多く挿入されていたこともあって、一般的には江戸時代の絵入狂言本や草双紙の文化の流れを汲んでいると考えられている。多くの場合、挿絵は見開きの片方のページを使用し、活字印刷の文章部分と木版の挿絵部分が分離した形になっているが、中には草双紙と同様に挿絵の中に文章が入り込む形式のものも見られた。一方、筋書の文章を分析した矢内賢二は、掲載された筋書中の記述は実際の台本を基にしながらも「舞台書き、台詞、ト書き」が簡略化されている場合があることを明らかにし、その理由として「未上演もしくは上演中の芝居の台帳をそのまま公開し、内容の細部までを明らかにするのが憚られたこと」と、あらすじを簡潔に伝えるという「筋書の最も大きな目的」のためには「狂言の梗概を一種の読み物として仕立てる」必要があったことの二つを挙げている。矢内はこうして「歌舞伎の舞台の様相を観客側の視点から描き出す記述の一ジャンル」が成立した点に『歌舞伎新報』の筋書の特色を認めており、後進の『歌舞伎』における型の記録にも影響を与えた可能性があるとしている。 このような筋書の掲載から発展して、のちに歌舞伎台本そのものも『歌舞伎新報』に掲載されるようになっていった。その嚆矢となったのが1879年12月17日の50号から翌年7月の87号まで連載された黙阿弥作の『霜夜鐘十字辻筮』で、「河竹翁新作正本」として掲載が開始されたこの作品は好評を博したため1880年6月に新富座で実際に上演された。これ以降、竹柴其水や久保田彦作ら黙阿弥門下の作者を中心に、12代目守田勘彌や榎本虎彦などの新作台本が掲載されるようになったほか、市川團十郎家の秘本であった歌舞伎十八番の台本も活字化の上発表された。
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