第3、第4の哨戒 1944年1月 - 4月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:06 UTC 版)
「ボーフィン (潜水艦)」の記事における「第3、第4の哨戒 1944年1月 - 4月」の解説
1944年1月8日、ボーフィンは3回目の哨戒でマカッサル海峡方面に向かった。この哨戒では、機雷敷設の任務も与えられていた。ジャワ海、バンダ海、フローレス海を巡り、1月16日には砲撃により帆船を撃沈した。翌日、ボーフィンは北緯00度17分 東経118度25分 / 北緯0.283度 東経118.417度 / 0.283; 118.417の地点で貨物船と2隻の護衛艦を発見。最初の攻撃は魚雷がまともに進まず命中しなかった。2度目の攻撃で魚雷を4本発射し、3本は命中しなかったものの1本は松祐丸(松岡汽船、4,408トン)に命中。さらにもう2本の魚雷を発射し、松祐丸に止めを刺した。ボーフィンは他に護衛艦の1隻に魚雷を2本命中させたと判断したが、いずれにせよ沈みはしなかった。 ボーフィンは一旦ダーウィンに戻り、クリスティによって魚雷の検分が行われたあと再出撃。ボーフィンは小型貨物船に対して魚雷を3本発射し、グリフィスは「魚雷は命中して目標は沈没した」と主張。しかし、戦後の調査ではこの戦果は認定されなかった。1月28日朝、ボーフィンは南緯03度25分 東経118度15分 / 南緯3.417度 東経118.250度 / -3.417; 118.250のマカッサル近海で水上機母艦神威を発見し、夕方ごろに射程距離に入るまで追跡した。ボーフィンは神威に向けて魚雷を6本発射したが、魚雷は全て逸れて命中しなかった。ボーフィンは急旋回し、魚雷を発射。2本が命中し神威は炎上したが沈没する気配はなかった。ボーフィンが止めを刺すべく行動すると、神威は砲や機関銃で反撃してきた。ボーフィンは反撃をかわして20分後に3度目の攻撃を行い、2本が命中。神威からの反撃が激しくなってきたので、ボーフィンは潜航した。浮上すると、神威の姿はそこにはなかった。翌日、ボーフィンはボルネオ島南東部の沿岸に機雷を敷設し、1月30日にはスクーナーの集団を発見。4インチ砲で粉砕した。2月5日、ボーフィンは28日の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 2月28日、ボーフィンは4回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。3月10日、ボーフィンは2、3隻の護衛艦を伴った4隻の輸送船団を発見。魚雷を6本発射したが、そのうちの4本が途中で爆発してしまった。上空の哨戒機が制圧してきたので、ボーフィンは深く潜航することを余儀なくされ、残り2本の魚雷の行方を観測することは出来なかった。護衛艦は爆雷攻撃を行い、ボーフィンを激しく揺さぶったものの、ボーフィン自体に損傷はなかった。爆雷攻撃が止んでから浮上すると、曳航されている貨物船を発見。ボーフィンは輸送船団に再度の攻撃をかけたが、反撃を食らって再び潜航。翌11日に再度、損傷した貨物船を攻撃。護衛艦の反撃で一旦下がったものの、再度接近して魚雷を4本発射。南緯01度18分 東経128度12分 / 南緯1.300度 東経128.200度 / -1.300; 128.200の地点で、単船になっていた月川丸(川崎汽船、4,673トン)を撃沈した。ボーフィンは日没後に先の輸送船団を追跡し、魚雷を発射したものの命中しなかった。ボーフィンは3月15日にダーウィンに寄港して補給を受け、3日後に再出撃。3月18日には小輸送船団を発見し、魚雷を6本発射したものの、目標の下を通過したかその他の理由により命中しなかった。無意味な爆雷攻撃のあとに再度の攻撃で魚雷を4本発射したが、結局無駄に終わった。 3月24日深夜、ボーフィンは北緯05度38分 東経125度58分 / 北緯5.633度 東経125.967度 / 5.633; 125.967のミンダナオ島チチカ岬沖でH22船団を発見し、辨加拉丸(日本郵船、5,399トン)に対して魚雷を発射し、2本が命中した辨加拉丸は2分で沈没していった。ボーフィンは次の獲物として新京丸(朝鮮郵船、2,672トン)も撃沈。さらに戦果拡大を狙ったが、魚雷を使い切ったためこれ以上の攻撃は断念した。4月1日、ボーフィンは33日間の行動を終えてダーウィンに帰投。艦長がジョン・H・コーブス(アナポリス1930年組)に代わった。
※この「第3、第4の哨戒 1944年1月 - 4月」の解説は、「ボーフィン (潜水艦)」の解説の一部です。
「第3、第4の哨戒 1944年1月 - 4月」を含む「ボーフィン (潜水艦)」の記事については、「ボーフィン (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第3、第4の哨戒 1944年1月 - 4月のページへのリンク